30-17. 縄文人と弥生人の共存共栄

      rev.4.縄文人と弥生人の共存共栄 2016年1月24日朝日新聞











































  縄文時代を矮小化し、縄文人を野蛮な先住民に貶めたいと活動をしている学者たちは、今でも弥生と縄文は相いれず弥生時代でも東北地方は野蛮人の縄文地域だったと 当記事のrev.3でも主張をしています。 一方、素直に遺跡・遺構を読み解く学者や研究者たちは、縄文と弥生の融合を発信しつつあります。Y-DNAとmtDNAの遺伝子調査に基づいた当ガラパゴス史観の主張は、 縄文の基層文化の上に水田稲作農耕文化が重なり、縄文人と弥生人は敵対せず交雑・融合し、水田稲作農耕遺伝子Y-DNA「O2b」は日本列島にしか存在しないY-DNA「O2b1」に分化し、 現代にまで続く世界に冠たる水田稲作農耕分化を維持してきた縄文−弥生先住文化を築いていたというものです。その意味でも、少なくとも第二次世界大戦まで日本列島は弥生文化時代が 継続していたと考えるのが正しいと思います。

  そこに朝鮮半島での生き残りに負けた様々なY-DNA「O3」武装侵攻集団が日本列島に逃げ込み、 武力で先住の縄文−弥生集団を征服し、勝ち残った集団が大和朝廷軍事政権を立ち上げ、ほかの集団は朝鮮半島での出自により列島各地に散らばり、後に地の武士団族として群雄割拠し、 恐らく新羅花郎系と思われる源氏系が鎌倉幕府の立ち上げに成功したのですが、大和朝廷族も武士団族も結局軍事政権に過ぎず、日本列島は何と第二次大戦でアメリカが乗り込んでくるまで、 少なくとも1500年以上はY-DNA「O3」軍事政権国家だったのです。マッカーサーも軍事政権でしたから、日本人はお上=軍事政権にどっぷりと慣れ親しんできた、 寄らば大樹が当たり前の民族なのです。

  では何故、縄文と弥生は敵対せず融合していったと思われるのでしょうか?アンダマン諸島の縄文のオリジンの末裔であるY-DNA「D*」100%のオンゲ族とジャラワ族は、 狭い島の小集団であるため集団の存続を守るために外来者(当然男のみ)は皆殺しにして排除することで族集団を守ってきたのですが、 恐らく日本列島での10,000年間で十分な人口があり(ここでも学者たちは縄文人は少数の野蛮なグループ程度が散在していた程度と矮小化している)、 ボートピープルとして朝鮮半島から水田稲作の好適地を求めて繰り返し南下してきたごく少数の水田稲作農耕民を、敵とみなさず受け入れる余裕があったからではないかと思われます。
  重要なことは長江文明系の水田稲作農耕民も中国大陸での黄河文明系集団Y-DNA「O3」との抗争に敗れて追い出されてきた集団である、ということです。 また中国大陸でも縄文人Y-DNA「D2」の兄遺伝子であるY-DNA「D1」羌族・チベット族との接触は当然あったはずなので、 Y-DNA「D」の持つ鯨面文身など呪術的な特異性にはすでに知識・経験があったと思われます。新しい列島での基盤を作るために水田稲作農耕民は積極的に縄文に溶け込んでいったはずです。 多少の小競り合いはあったはずですが、縄文の狩猟採集地域と水田稲作好適地は棲み分けが可能だったのかもしれませんし、縄文集団が稲作を積極的に取り込んだのかもしれません。

     弥生人Y-DNA「O2b1」の直系の先祖Y-DNA「O2a」100%の子孫、インド洋上のニコバル諸島のshompen族です。
  真ん中の人は誰かに面影が似ていますね!若い頃の近藤正臣か或いはむくんだキムタクかなぁ!?左側と右側の人も赤道直下なので肌はかなり濃いのですが、 薄まれば日本を歩いていてもわからないでしょう。

  Y-DNA「O」は、縄文系「D2」ののようなジャガイモ顔のダンゴ鼻ではなく、「C」系のような彫が深くややいかつい顔立ちでもなく、 鼻筋は通っていますが彫はそんなに深くなく、顎が細い顔立ちをしています。

  日本人の中に占める長江文明系遺伝子Y-DNA「O1a」+「O2a」+「O2b」+「O2b1」の頻度は約32%です。韓民族に占める長江文明系遺伝子の頻度は若干高く約37%ですが、 お互い1/3は同じ長江系遺伝子の子孫なのです。これがお互い感じる「近さ」の理由です。しかし前述のように日本人の約48%と半数を占めるY-DNA「D2」、「C1」と「C3a」縄文系が 朝鮮半島で完全に欠落していることが両民族の決定的な違い=遠さになっているのです。朝鮮半島には痕跡程度の1%程度のチベット系のY-DNA「D1」しかいません。

  このように日本列島の農耕を請け負ってきた長江文明の子孫は、農村という代表的な日本の原風景の一つの担い手として縄文語の文法の上に農耕文化関連の単語を大量に上乗せし、 縄文語を豊かなものにしたのです。日本列島の言葉を決してオーストロアジア語文法に代えることはしませんでした。なぜなら圧倒的に縄文人の人口の方が多かったからです。 弥生人は自分たちのオーストロアジア語の文法を捨てて溶け込む道を選んだのでしょう。



以上

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30-17. 弥生水田稲作農耕遺伝子Y-DNA「O2b」,「O2b1」

      rev.3.弥生文化は多様だったのだろうか?  2014年8月25日朝日新聞












































  水田稲作農耕文化を日本列島に持ち込んだのは、長江下流で水田稲作技術を興しながらも、拡張する黄河系Y-DNA「O3」との古代中原での勢力争いに負けて 長江流域から追い出されたY-DNA「O2a」(Y-DNA「O1a」も含む)から分化したY-DNA「O2b」です。
  このY-DNA「O2a」は越民と思われ長江下流域から南北に逃げ、東南アジアに逃げた集団は広範囲に拡がり現代でも華南やヴェトナムなど東南アジアに多く分布している。 一部は更にインド亜大陸に深く入り込み水田稲作農耕をもたらし、インドアーリアン集団やドラヴィダ集団の中でオーストロアジア語族として今日まで生き残っています。 特にドラヴィダ民族の中に入り込んだ部族集団は水田稲作農耕文化の語彙を現代にまで保持し、学習院大学の大野教授がドラヴィダ民族の中のタミール語が 日本語の祖先であるとの当時衝撃的な学説を発表する間違いを行った原因になりました。

  一方北へ逃げた集団は現在の満州付近まで北上したようです。満州を北限としてY-DNA「O2b」の出現頻度が高いことから、満州辺りでY-DNA「O2b」に 分化したのではないかと欧米の研究者は考えています。満州族の調査報告で古代満州族にはかなりの朝鮮姓部族が混じっており、 その子孫が今でも「O2b」を維持していると考えられます。つまり満州あたりで「O2a」から「O2b」に分化した集団が朝鮮族を形成したものと思われますが、 一方、「O2b」は長江下流域に居住していた頃から越に対応する呉として分化しており呉民集団を形成していたのではないかとも考えられます。 この方が呉越が激しく対立していた理由が理解し易いです。
  日本に漢字が持ち込まれた当時の唐音以外に何故呉音の発音が存在するのかは、渡来した稲作農耕民は呉民だったと考えると納得が出来ます。
  日本列島に少数存在する「O2a」や「O1a」は「O2b」と一緒に渡って来たと考えると合理的です。
  Y-DNA「O2b」は稲作適地を求め朝鮮半島を南下し朝鮮半島南部に弥生文化と同じ稲作農耕文化圏を構築し、更に耕作適地を求めボートピープルのように小集団で小刻みに日本列島に移動し、
  先住民だった縄文人、多数派のY-DNA「D2」(恐らく海洋系「C1a1」及び内陸系「C2a」の中にも)の中に入り込み、 圧倒的な農耕技術で住む場所を確保し棲み分けて行ったのではないかと考えられます。
  そして日本列島に渡ってきたY-DNA「O2b」遺伝子集団(恐らく呉民)は圧倒的多数派の縄文人Y-DNA「D2」と交配しY-DNA「O2b1」に分化していったものと考えられます。 欧米の研究者は西日本で分化したと考えているようです。
  弥生集団は小さなグループ単位でボートピープルとして都度海を渡ってきたため多数派の縄文人と対立を避けるため、稲作農耕による食糧供給担当として重宝され少しづつ勢力を拡大し、 日本列島を稲作農耕文化圏に変えていったものと思われます。

  この米作りを後押ししたのは、恐らく更に後から日本列島に武装侵攻集団として渡ってきたY-DNA「O3」の大和朝廷族や武士団族だったのではないかと思われます。
  もともとプロト漢民族だったY-DNA「O3」武装集団は朝鮮半島の中華王朝の出先機関にいた頃から食糧米の重要性を認識しており、 渡った日本列島に稲作農耕民が先住民族として既に定着していたのを食糧供給源として上手く利用したと考えられます。

  では本題で何故、弥生文化は多様だったのでしょうか?
  当ガラパゴス史観は、弥生文化が多様だったのではなく、受け入れた縄文文化が多様だったのではないかと考えています。 日本列島で1万年以上熟成された縄文文化は地域間の移動や交流がありつつ地域独特の文化が形成・根付いていたのではないかと思われます。
  蝦夷しかいなかった後進地と考えられた青森で三内丸山遺跡が発掘されたことで縄文時代観は一気に変わったように、 縄文時代は多様な地域性を持つ地域文化集合だったと考えられます。
  従って稲作農耕文化の受け入れ方が違っていたのでしょう、水田稲作農耕が比較的容易だった地域では地域勢力拡大の技術の一つとして積極的に受け入れられ、 難しい寒冷地域では、満州から南下してきたのと同様に撤退したのではないかと推測出来ます。
  とは言っても、子細な分類が大好きな日本の研究者が「多様」と考えても、恐らくそれは海外の研究者から見れば誤差の範囲内でしかないのかもしれません。
  現代は寒冷地対策された改良イネが作りだされ北海道や東北、新潟などの寒冷地は今やうまいコメの大産地です。
  弥生文化は添付の記事の説のように利根川以北には波及しなかったのではなく、現代まで時間がかかっただけなのです。 つまり弥生文化は今まで続いていると考えればどうってことないのです。北海道まで波及したのですよ。2000年以上かかってですが。

  弥生時代以降は、武装侵攻集団だったY-DNA「O3」プロト漢民族が日本列島を蹂躙し搾取しまくっている約1500年の軍事政権と考えれば、奈良時代や平安時代、 鎌倉・室町・徳川・など武家政権の時代は征服者の歴史で、明治以降も今だ武家政権が形を変えて続いています。
  見方を変えると、縄文文化と、後から来て縄文文化と融合した弥生文化という、日本列島先住民の生活・生産形態に根差した時代文化は実は現代まで続いており、 現代はまだ弥生文化のさ中、後期弥生時代と考えられるのです。
  第二次大戦後の農地解放後、武家の子孫のエスタブリッシュメント階級と農民や漁民等の先住民との融合は一気に進み、今は新しい日本人が増え、日本全国での稲作も完成し、 弥生時代はやっと最晩期になってきたと考えられます。
  次に待ち受けているのは恐らくグローバルな変化でしょう。島国の中だけで動いてきた先住民と征服者の文化が、もっと違う遺伝子との融合で新しい時代に入るのではないかと考えられます。 またそうなるのが歴史の必然のように思われますが。



以上

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