30-23. Y-DNAから見た日本語の成り立ち考

  これまでもブログで断片的に触れてきましたが、遺伝子調査の結果だけでどこまで言及できるか、いささか冒険ですが日本語の成り立ちに迫ってみました。

日本語とは、

●ガラパゴス的民族性の基層である古代シーラカンス遺伝子の縄文倭人(文字通り小柄なネグリート)の話していた古代語の縄文語が基層です。特に縄文倭人の多数派のY-DNA「D2」の祖先の「D」が出アフリカ以来話していた言語が縄文語の祖形です。世界でこの縄文語の祖形を受け継いでいるのは日本以外では「D*」100%のアンダマン諸島のOnge族とJarawa族、「D1」「D3」のチベット族のみです。他に近い言語は全く存在しません。このため日本語は古代語の形態のままの孤立言語なのです。もしかするとコイサン族やピグミー族の言語と同様にアフリカで話されていた古代言語の直接の子言語かもしれません。

●縄文語はこれに更に出アフリカ以来数万年行動を共にしたと考えられている土器製作などの技能集団でもあったと思われる沿岸漁労系Y-DNA「C1a」と大型獣ハンター系「C3a」の語彙が重なっている複合言語です。縄文語は日本列島でも石器時代以来少なくとも2万年近くは話され根付いた熟成された言語のはずです。もしかすると西ニューギニアのY-DNA「C2」100%のLani族の漁労採集の言葉に日本語に似た単語があるかもしれません。

●そこに最初の外来文化言語である長江文明系オーストロアジア古語(水田稲作農耕文化の言語)の弥生系語彙が追加され、弥生人Y-DNA「O2b」「O2a」「O1a」は「O3」に極東ユーラシア大陸を追い出されボートピープルとして満州−韓半島南部−北九州と逃げ、これ以上行く先のない日本列島で大多数の縄文人と仲良く共存・融和するために縄文語を受け入れ新しい文化である水田稲作農耕の語彙を上積みしたのです。弥生人が迅速に溶け込んだため、稲作農耕技術は青森まで以外に早く伝播したのでしょう。

  このオーストロアジア古語系「O2b」は呉音を持ち込んだようです。日本列島に越音が残っていないということは呉系の稲作農耕民が北方へ逃れ「O2b」になったようです。当方が以前予想していた百越系の残党=百残=百済は越音ではなく支配層の使っていた唐音を持ち込んだようです。一方陸稲系稲作農耕(O3」系)も縄文晩期頃に日本列島に入ってきたようなのですが語彙上の影響度はまだ全くわかっていません。

  一方、「O2b」の兄遺伝子の「O2a」が東南アジア-東インド-南インドと逃れ、現代ドラヴィダ人に14%以上の遺伝子頻度を残すぐらい交配し、ドラヴィダ語に水田稲作農耕文化の語彙を持ち込んだため、もともと同一だった稲作関連の語彙が日本語とドラヴィダ語(特にタミール語)で似ているのは当然です。またオーストロネシア語系の古単語も古日本語には見つかっているそうですが、それは当然「O1a」が話していたはずのオーストロネシア古語の持っていた語彙のはずです。

●ところが、紀元後になり中華王朝の膨張に伴い韓半島から続々と中華王朝辺縁部の黄河文明系「O3」集団がはじき出されて渡来・移住するようになりました、複数の戦闘集団が前後して列島に日向など各地に占領地を設け、最終的に縄文-弥生交配集団の中心地だった畿内を目指して侵攻し、ある集団が渡来集団同士の戦いを制して大和に占領軍の王朝を築くまでになりました。我が縄文-弥生遺伝子集団は下等な民として扱われたわけです。

  この占領軍のGHQは大和朝廷と称され奈良盆地に置かれ、支配階級は大和朝廷族となり漢語を日常語(母語)として読み書き話し、平安時代に最終的に百済系朝廷族が勝ち残りました。百済は一般民衆は呉音系のY-DNA「O2b」ですが支配階級は「O3」で唐音系だったようです。

  そしてこの2番目の外来語である漢語を母語とする大和朝廷族は先住民の縄文-弥生交配集団を支配・懐柔するため漢語から縄文語へ翻訳するためにかな・カナ文字を開発して読み下し、支配用の当時の古漢語の語彙を列島隅々まで浸透させ一気に列島の支配者にのし上がったのです。そしてできあがったのが正統性を主張し都合のよい経緯を書いた記紀です。こんなものは我々縄文-弥生交配遺伝子集団から見れば進駐軍のたわごと・絵空事に過ぎないのです。無視しましょう!

●一方、武士階級では、高句麗系武士団(坂東武者系)や新羅花郎系武士団(源氏系)など韓半島から渡ってきた武士団族も「O3」漢語派だったため、縄文語に武士団系の語彙がかなり取り込まれたはずです。武士団は地元に根を下ろし地元密着型になり力を蓄え大和朝廷族と覇権争いを繰り広げることになったわけです。

●しかし幕末の動乱期まで日本列島の中で全員が話した標準言語はまだなく、支配階級と一般民衆は同じ言語を話していたわけではありません。幕末から明治の動乱期に第三の外来語である明治新政府系の新作語彙や翻訳語彙や西欧諸国の語彙が洪水のように入り込み、縄文語の文法の上にどんどん上積みされ日本語の祖語に昇華・熟成されたのです。しかしこれでも日本語の完成ではありませんでした。明治の標準語とされたのは明治政府の教育を握った長州閥の山口弁でした。

●日本語が完成したのはほんの60年程度前の第二次大戦後です。あたらしい教育によって今我々が話している現代標準語になりやっと日本語になったのです。日本語の歴史は極めて新しいのです。それまで縄文語にオーストロアジア古語の弥生語語彙と漢語の語彙が上積みされた複合言語だったのです。話し手も階級によって分かれていました。

  以上、語彙は時代と共にどんどん新しい文化のものが追加され古いものは消えて行き、言葉遣いも同時に変化して行きますが、最も基層になっている文法は縄文語、それも古代遺伝子Y-DNA「D」の話していた古代語です。このため地理的に極めて近いはずの朝鮮半島も台湾も極東の諸民族も日本語とは全て言語体系が全く異なるのです。しかし日本語は古い外来語彙をどんどん取り込んできたため、今でも古語の語彙は似ているものも結構あるのです。

  遺伝子調査だけでこれだけのことが言えるのは、遺伝子研究の結果がグローバルで公開されインターネットでほとんど入手でき、解析できるようになったからです。日本論の議論は学際的でなければなりません。それにはグローバルに公開された論文・文献の調査と解析を自ら行いましょう。

  またmtDNAの遺伝子解析はかなり進み遺伝子ハプロタイプのツリーはほぼ確定しここ1年ばかり改定はありませんが、Y-DNA遺伝子のハプロタイプはまだまだ研究途上のためツリーは都度改定されており最新は9月に改定されています。当ブログも日本人に関係がある重要なハプロタイプの改定がある都度、ブログのツリーを改定しています。

以上 ◆
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30-24. Y-DNAから見た日本神話・民話の源流考

  (3) 日本神話・民話の源流考

  日本神話はこれまで伊藤清司氏、大林太良氏など著名な学者が論じてきています。神話好きだった当ガラパゴス史観も中国古代神話や日本神話を良く読んだものでした。また大林太良氏などの本もかなり良く読みました。

  先の記事でイザナギ・イザナミ神話はY-DNA「D」の祖先神話が源流の縄文神話であると確信しました。

  これまでの神話論の決定的な壁は遺伝子論が全く考慮されていないことでした。Y-DNA遺伝子研究はここ10年で急速に発展し、民族としてのアイデンティティを論じられるようになり、mtDNAでは全くわからなかった「民族」集団が、ガラパゴス史観のような欧米の諸論文を読みそこからデータマイニングする手法を持つ素人にも容易に比較神話論が論じられるようになったのです。これが学問の進歩=情報の進化と言うものです。

●竹取物語

  この有名なモチーフはなんと、アバ・チベット族チャン族自治州では「斑竹姑娘」(パンチュクーニァン)という物語として伝わっているそうです。これまでどちらが先だとかつまらない論争があったようです。この地域の住民は予想通りチベット族が52.3%、羌(チャン)族が17.7%も占めるY-DNA「D1」が大部分を占めるY-DNA「D2」縄文人の兄弟遺伝子の土地なのです。長江人や漢族との交配をいとわなかった羌族と交配を嫌ったチベット族どちらもが共存しているのです。

  なんと竹取物語の源流・モチーフがY-DNA「D」縄文人の伝承とは思いもよりませんでした。驚きです。どちらも後世支配階級になった漢族「O3」が物語に構築したものだと思われますが、 竹の中から生まれた女の子、上流階級から求婚され難題でお断りするなど、骨格は同じなのです。後は当時のお互いの異なる土地柄と時代で脚色は異なりますが(日本でも民話として伝わる内容と今昔物語に伝わる内容は若干異なります)。日本列島に侵略軍として乗り込んできた大和朝廷族などの「O3」集団の中にチベット族や羌族の「斑竹姑娘」民話を知っていた官僚階級がいた可能性も大です。

  つまり中国版物語を知っていた「O3」官僚がいて、日本列島で同じようなモチーフの民話伝承があったため、日本列島版に焼き直した可能性が高いと思います。ともかくY-DNA「D」に伝承されてきた逸話出会ったことは確かでしょう。またこの伝承を生んだY-DNA「D」遺伝子集団の中に当時既に階級差が生まれていたことは充分にに推測できます。

  つまり14000年前頃にY-DNA「D」は「C」と共に縄文時代を開いた訳ですが、そのはるか以前3万年前頃には既に日本列島に到達し石器時代を育てたと考えられます。その時には既に階級の差ができており、集団のリーダークラスの求婚物語と考えれば理解できそうです。

  オーストラロイドであるY-DNA「C2」、「C4」は5万年前頃には既にサフールランド(ニューギニア・オーストラリア大陸)に到達していたことが明らかにされています。しかも「C」は高度な海事技術を持っていたことが東海大学などのチームの研究で立証されています。当然日本列島にも少し後ぐらいには到達しているはずです。1例が沖縄で発掘され最近オーストラロイドと判明した港川人です。

  Y-DNA「D」はサフールランドでは現在まだ発見されていません。アボリジニを全員調査すれば1人ぐらいは見つかる可能性はあります。が今のところはY-DNA「D」はスンダランドから「C1」、「C3」と共に北へ向きを変え、東シナ海−黄海ランドで3手に別れ、「D1」隊は内陸に入り中華大陸最初の住民となり、「D2」隊は2手に別れ1隊は「C1」と共に日本列島に入り石器時代を経て縄文時代を切り開き、「D2」別働隊は「C3」と共に日本海の北岸を北上し陸続きだった間宮海峡からサハリンに入り南下し陸続きだった北海道に入り、ブラキストン線(津軽海峡)で留まり、後に北海道に侵入し支配者となったY-DNA「C3c」の古代ニヴフ族と共に現代アイヌ民族の先祖を構成しています。

  Y-DNA「D2」と共に東北アジア・シベリア入りしたY-DNA「C3」はその後3手に別れ、一隊は「C3a」として寒冷化したシベリアから逃げ出した大型獣を追って南下し日本列島に入り、別の一隊は「C3b」として出シベリアし北米大陸に大移住し縄文土器似の土器を中米に残し、最後の「C3c」はシベリアに留まり寒冷地適応しツングースやモンゴリアン、古住シベリア族の祖先になり、ついにはユーラシ大陸に1600万人ものジンギスカン家系を残す大冒険者になったのです。その「C3c」の集団の1つが古代ニヴフ族になり北海道に侵略し「D2」を征服しオホーツク分化を興し、現在まで現代アイヌ民族の旧支配階級として15%の遺伝子を残しているのです。

  アイヌ民族の85%は縄文人と同じ「D2」遺伝子を持っている同族ですが、支配階級の子孫である15%は侵入者古代ニヴフ族の「C3c」である点が日本列島人と全く異なるのです。日本列島には「C3c」はまだ発見されていません。いわゆるツングースつまり北方騎馬民族は日本列島には全く上陸していないのです。一世を風靡した騎馬民族の征服王朝など日本列島では全く存在しなかったのです。飛躍的に進んだY-DNA遺伝子研究の結果は明解でした。これまでの論争や議論の多くをスパっと切り捨てることができたのです。これが学問の進歩なのです。今後もまだまだ新しい手法が民族論をもっと精度よく解明するかもしれませんが、最近の遺伝子研究の結果は基本として変わることはないと考えられます。

  また話がそれましたが、アイヌ民族の研究者にお願いしたいことは現代アイヌ民族の伝えるユーカラに、果たして竹取物語の源流が残っているかどうかです。もし残っていなければユーカラは単なる古代ニヴフ族の伝承でしかなく原アイヌとは無関係なものとわかります。つまり「C3c」の伝承ということになります。今のところ竹取物語のモチーフが或るという話はまだ聞いていません。そこまで研究している研究者がいないのだと思います。個人的にはユーカラは「D2」の伝承が中心と思いたいのですが、記紀が支配階級になった「O3」侵略者の創作神話であるように、ユーカラも支配階級の古代ニヴフ族の創作伝承である可能性は大です。歴史と同様、神話も被支配集団を手なずけるために征服者によって創作されるものなのですから。

以上 ◆
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     (2) 中国の古代神話に再々度挑戦してみました。

●中国大陸の最初の住人は縄文人の主流派Y-DNA「D2」の兄遺伝子のY-DNA「D1」(恐らく羌族)であることは前回の再考時に書きました。

●中国古代神話では3皇の初代は伏羲

  現代中国の人文学会ではY-DNA「D2」85%のアイヌ民族は伏羲の1部族だとする説が何と有力なのだそうですが、とすると伏羲はY-DNA「D」遺伝子集団の祖先神で「D1」の羌族やチベット族の祖先神を取り込んだ結果であることになります。勿論我ら縄文系Y-DNA「D2」の祖先神の原型でもあるはずです。記紀では無視された縄文系倭人(ネグリート)の中の「D2」集団の祖先神がやっと中国古代神話の3皇初代の伏羲と同じらしいとわかりました。いささか驚きですね!

  とすると伏羲はイザナギで、伏羲の兄妹または夫婦と目される女?はイザナミと考えるのが自然です。これまで記紀では縄文系先住民の神話は無視され、海幸彦「C1」と山幸彦「C3a」の対立の神話のみが縄文系神話と考えていましたが、イザナギ・イザナミ神話も縄文系「D2」神話だった可能性が極めて大となりました。

  この中国人文学会の主張は言い換えれば中華大陸の最初の住民はY-DNA「D」だという欧米の研究者や当ガラパゴス史観の主張にドンピシャ合致しています。中国の人文学会は大したものです。自らY-DNA「D」が中華大陸最初の住民で、3皇の初代と認めるのですから心が広いですねぇ。中国人を見直しました。

●3皇2代目の神農は姜姓で炎帝と称したそうです。当然Y-DNA「D1」の祖先神です。

  これも中華大陸最初の住人はY-DNA「D1」の羌族であると主張するガラパゴス史観を見事に支持するものです。中国古代神話の祖先神の何と初代、2代目がY-DNA「D1」の祖先神だったのです。勿論Y-DNA「D」共通の祖先神の原型は縄文人「D2」の祖先神でもあるのです。韓半島に3%弱程度残っているとされる「D1」は当然羌族の姜姓が本来の主体でしょう。もしY-DNAが連綿と続いているならですが。

  しかし漢民族の祖黄帝と連合したと考えられているのは、現代に生き残っている羌族の状況を見るとさもありなんというところです。中国神話・国語では「D1」「羌族」の祖先神は水神・共工となっており悪神だそうです。。伏羲を中華神話に召し仕上げたため、共工という存在を作り上げたのでしょう。羌族は漢民族に長い抗争のすえに屈服したことになるため共工を悪神にしたものと考えられます。しかし古典の国語では共工こそが至上帝として天地を治める神だったようなのです。やはり本来、羌族の祖先神は伏羲で、漢民族がそれを横取りしたため代わりに共工を作り上げたと考えるのが妥当でしょう。

  伏羲と女?こそがY-DNA「D」遺伝子集団の本当の祖先神で、日本列島ではイザナギ、イザナミとして記紀に取り込まれたと考えるのが極めて妥当です。

  現代まで生き残っている羌族は、その後中華大陸で拡大した長江文明人「O1」、「O2」(ミャオ族、シェ族、ヤオ族など)と抗争しながら取り込まれ交配し、更に次に拡大した黄河文明人「O3」とも抗争をしながら取り込まれ交配し、結果「O3」が最大の頻度を持つ漢民族の周辺民族に変わってしまいましたが、交配を好まず純系を守ろうとした集団がチベット高原に逃げ込んだ「D1」チベット族です。しかしチベット族も結局「O3」との交配がかなり進みまだ「D1」が最大頻度をかろうじて保っていますが、独自のチベット密教をもし守っていなければとっくに羌族化していたはずです。日本人が善光寺など密教様式に心魅かれるのは同じ「D」遺伝子が主体の集団なので当たり前のことなのです。

  もしY-DNA「D1」が50%を占めるチベット民族が独立できるなら、世界で「D2」41%日本と並ぶ唯二のY-DNA「D」最大頻度国家になるのです。しかし共産党政権下では無理ですが....。それでも残念ながらどちらも支配層は「O3」です。

●3皇の3代目は?

    女?、燧人、祝融、黄帝など文献によって異なるそうです。有力なのは女?らしいのですが、ということは「D2」系から「O2」か「O1」系の長江文明系の祖先神を取り込む際に認識が一本化されていなかったことをあらわしますが、どうやら3皇は本来「O3」によって取り込まれた中華大陸の先住集団のY-DNA「D1」羌族の祖先神だったように思います。

 女?はどうやら「D1」系で「D2」ではイザナミのようです。
 燧人は?全く情報がありません。
 祝融は、炎帝の子孫なら「D1」系、羌族の祖先神の共工と戦って勝ったらしいので
       羌族のリーダー争いで勝ち残った方か?それならやはり「D1」系だが。
 黄帝は、漢民族「O3」の祖先神らしいので3皇に入るのは変!

●5帝

●初代 黄帝
  漢民族の始祖神とされているが、まあそんなもんでしょう。特に異議を申し立てるような故事来歴はありません。

●二代目 ??(せんぎょく)
  初代黄帝の孫らしいが、特に目立つ故事来歴はありません。

●三代目 ?(こく)
  黄帝の曾孫らしい。

●4代目 堯(尭、ぎょう)
  聖人で名君だったらしいのですが、夏の始祖とされる禹の父の鯀(こん)を黄河の治水失敗で殺している暴君でもあるようです。夏は長江文明系のようなので、長江系に黄河の治水をさせるような嫌がらせを平気でするのが黄河文明系のいやらしさでしょう。

●5代目

  やはり聖人で名君だったらしいのですが、3帝に較べてそもそも5帝の意味がよくわからないのです。漢民族の祖先神統のようなのですが、日本の古代天皇も以前の記事で書いたように子孫もいない天皇が何代も続き、後世権力を握った百済系が他の系列の始祖を取り込んだだけの名ばかり天皇がかなりいることを、新撰姓氏録の調査で見つけましたが、中国古代の5帝は何だったのかまだインスピレーションが湧いてきません。

●となると、次に取り込まれたはずなのは長江文明系「O2」、「O1」の祖先神ですが、長江文明は黄河文明から見ると同時代進行で直接対抗した集団なので、かなり昔に取り込まれ同化しつつあった羌族と比べて中国古代神話の漢民族の祖先神に取り込むのは難しいところがあったようです。3皇5帝には含まれていないようです。あくまで対抗者として敗者になっているようです。

  Y-DNA「D1」羌族の次に中華大陸に拡大をした長江文明ですが、中国神話では漢民族の敵役の三苗として描かれています。現代ではミャオ族、シェ族、ヤオ族、リー族などが末裔と考えられています。     中国古代神話では漢民族の祖と考えられている黄帝に長江文明祖先神の蚩尤が破れ、長江文明の蚩尤集団は「O2」のミャオ族と「O1」のリー族に分裂したということになっています。恐らく長江文明の中心だったらしい「O2」の集団は南北に四散したことになっており、越系の「O2a」は江南からインド亜大陸まで逃げ、途中各地でヴェトナムなど「O2a」のオーストロアジア語族集団を形成し、最も遠くに逃げた集団はドラヴィダ人と交配し、南インドに水田農耕稲作の文化を持ちこみ日本語とよく似たオーストロアジア語系の稲作農耕用単語を定着させました。

  一方北へ逃げた呉系の「O2b」集団は以前触れたように満州−韓半島−日本列島へ逃げ、日本列島で世界最先端の稲作農耕技術を極めたのです。呉音も持ち込んだようです。   「O2」集団が基本的にやや内陸寄りの長江下流域の農耕集団だったのに対し、オーストロネシア語族の「O1」集団は長江河口域の沿岸集団だったようで台湾、海南島を始めもっぱら島伝いに太平洋に広く繰り出しインドネシアからオセアニアの中にも遺伝子を色濃く残しています。

  この三苗族のリーダーの蚩尤は羌姓とする古代文献もありますが、羌族は「D1」なので明らかに間違いですが、長江文明側に取り込まれた羌族がいたはずなので可能性はあります。となると蚩尤に味方し勇敢で戦が上手いとされる九黎族は大型獣ハンターだったY-DNA「C3c」の可能性も出てきますが、果たして?

巨体の夸父族はあまりに神話的すぎて全く想像できません。

●夏

  いよいよ王朝時代になりますが、最初の夏はもともと東夷の1つであったことと、「O2a」越系集団が夏の末裔を自称していることから、夏は実は黄河文明系ではなく長江文明の最初で最後の国家集団で中華文明最初の王朝ではないかと考えられます。

  中国古代神話で夏の始祖の禹を5帝の一人に入れる古代文献もありますが、夏は長江文明国家である以上、漢民族の系統とされる5帝に入れるのは間違いと思いますが、Y-DNA「O3」の亜型は以前の記事でご紹介したように、黄河文明直系の「O3a1」と長江文明系「O2」と交配し分化した「O3a2」があります。結局人口で多数派を占める長江文明系を漢民族に取り込むために「O2」の禹を取り込んだとすれば納得は出来ます。

  記紀もそうですが、歴史は勝者が歪めて作るものなので、記録もない祖先の王統などどうにでもなるのです。...と、ひねくれてみるのも良いのですが、各有力諸族の祖先神話を八方美人的に取り込んだと素直に解釈するのも良いものです。

●殷

  「D1」羌族や次に「O1」、「O2」長江文明人が勢力を張っていた頃の黄河文明族は、もともと雲南省辺りで「O2」から分化した最も新しい亜型のため、中原には入れず黄河流域に居住しながら勢力を蓄え9000年前頃には河南省辺りに裴李崗文化を興しましたが、地べたの竪穴式住居で畑作農業でアワなどを作っていたそうです。   しかし歴史は常に新しい遺伝子が作ってきたように始めは弱小の新興遺伝子集団も活性が高いため古い遺伝子集団を押しのけて取ってかわるのです。極東はこうして全ての先進的な国の支配階級は「O3」になったのです。そして長江文明族最後の王朝夏に取ってかわり「O3」最初の殷王朝を興し、次第に周辺の他民族を取り込み漢民族と言うヨーロパのY-DNA「R1b」と並ぶ大遺伝子集団を作り上げていったのです。

  日本列島でも同じことがおき「O3」大和朝廷族が日本という国を作り1300年ぐらいかかって明治維新で日本民族という国民が出来上がったのです。

●現代ミャオ族

  長江文明族の末裔と考えられやすいミャオ族ですが、実は遺伝子的にはY-DNA「O2」は13%程度しか残ってなく、遺伝子的には67%の「O3」民族に変わってしまっています。生活も「O3」遺伝子の焼畑農耕中心の山岳民に変貌してしまい、本来の長江文明の水田稲作農耕を守っているのはごく一部になってしまっています。これが歴史の結果で、周辺民族を取り込んできた「O3」遺伝子のすごさなのです。

  勿論「O3」の中は46%が「O3a2」長江文明系、10%が「O3」黄河文明直系、10%が「O3a2c」漢民族系でなので「O3」化は進んでいますが「O2」含め民族の59%は長江文明の遺伝子を残してはいます。

  そしてこれも当然なのですが、黄河文明と出会う前に出会ったはずの中華大陸最初の住人の羌族系のY-DNA「D1」遺伝子もミャオ族に7%強も交配しており、古代に「D」とかなり密な接触や抗争があったことを裏付けています。そしてなにより先に推測した、ミャオ族と共闘した戦上手でY-DNA「C3c」ではなかったかと言う九黎族ですが、「C3c」が3%もミャオ族に交配していることで裏付けられました。

  遺伝子の調査は神話の言い伝えが、意外に歴史を素直に物語っていることを示しました。神話と事実は紙一重で、「殷」が発掘で事実と既に証明され、夏も相当する文化が発掘され文化集団があったことが証明されました。夏はまだ「夏」と確定するに至る考古学的な絶対証拠はまだ出土していませんが、神話の指摘する場所と年代に相当する遺跡が発掘されているため、いずれ確定されるでしょう。

  つまり時の為政者にとって都合のよい征服した諸族の言い伝えが集められ系統だってまとめられた物語が神話になります。神話に取り上げられなかった物語が、山海経のような公式ではない民間伝承古典に残るのです。

  今回の中国古代神話の調査で縄文人の神話の一つがイザナギ・イザナミ神話とわかったのは収穫でした。では弥生人の神話は記紀に残されているのでしょうか?大国主神話は弥生人つまり長江文明系の神話なのでしょうか?では「O1」か「O2」どっちの?

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    (1) 遺伝子調査から見た中国古代神話考

  中国古代神話はギリシャ神話や記紀などと昔から何度も読んだ神話ですが、そこに欧米の研究者が言っている東ユーラシア=中華大陸の最初の現代人類はY-DNA「D」だったと言う、Y-DNA「D」の痕跡を探そうと以前当ブログで挑戦して挫折した過去があります。しかし往生際が悪いのが年をとった証拠で、再度チャレンジしてみました。   海外の研究では長江文明系は母系集団(そうなら「O2」、「O1」の弥生集団も母系集団)、黄河文明系は父系集団(それなら「O3」渡来集団は父系集団)だそうです、では縄文集団のY-DNA「D」は?「C」は?

  現在中国では2大古代文明+2古代文明の4古代文明がが考えられているそうです。

●最も古い長江文明

    最も古い玉蟾岩遺跡は16000年前頃と考えられているそうですが、稲作農耕の確認されている最も古い仙人洞・呂桶環遺跡は14000年前頃と考えられているようです。西欧文明の農耕は肥沃な三角地帯:メソポタミアで発生し、その農耕民が西欧に拡散したと考えられています。つまり東西それぞれで独自に農耕は発展したと言うことが長江文明の調査でわかったのだそうです。そして日本人はその東の農耕文化を最も極めた後継者なのです。

  日本列島では縄文時代の草創期に当たる時代に既に中華大陸では文明が確立されたようなのです。と言うことはY-DNA「D2」と「C1」はその前恐らく旧石器時代には既に日本列島に到達していたのではないかと考えられます。「C3a」は「C3b」の出シベリアの時期を考えると縄文草創期頃に合流した可能性も大です。   揚子江流域はこのようにかなり古い頃から稲作農耕文明だったようでY-DNA「O1」から分化した「O2」が揚子江中流域で文明と言えるレベルの文化をを興したようです。「O1」はかなり遅れて7000前頃から揚子江下流域に文化を立ち上げたようですが、「O1」が最初に分布したと考えられる最寒冷期の遺跡は今は揚子江河口の更に先の東シナ海-黄海ランドの大陸棚に沈んでいるはずなので「O1」文化は遺伝子から見ても当然中流域よりもっと古い可能性はかなり大です。

●黄河分明

  一方「O2」より新しく分化した「O3」黄河分明系は揚子江流域を先輩遺伝子の「O1」「O2」に既に占領されていたため、黄河流域に分布をしました。と言うより黄河流域に分布した集団が寒冷地適応や黄砂適応を受けながら分化し、7000年前頃から独自の文化を興すようになったのでしょう。

●四川文明

  四川文明は謎が多い文明のようです。長江の上流域にあるため、長江文明の系統もあれば、三星堆文化のように全く異質な文化もあります。Y-DNA「D」に関係があるとすれば三星堆文化の異質さしかないと思います。Y-DNA「O」は西欧遺伝子の「R」と同様、古代遺伝子の一つのY-DNA「F」から分化を重ねて生まれた新興遺伝子集団なので、古代特有の呪術性はかなり薄まっていたはずですが、「D」は「F」より古い古代遺伝子なのでその呪術性はかなりの高いレベルだったはずです。三星堆文化の異様な呪術性はぴったりです。

  欧米の研究者が中華大陸の最初の現代人類はY-DNA「D」だったろう、と書いていますが、現代チベット系民族として子孫がチベット高原や四川盆地など標高の高い地域に閉じ込められ現存している以上、古代神話にも痕跡が残っていると期待されるのですが、あまりの呪術性のため、特に孔子などは呪術性を嫌っていたため、史書から無視されていた可能性が高いそうなのです。

  四川省流域は諸部族が入り乱れてきましたがその後の吐藩王国などチベット系諸王国の存在や現在のチベット系集団が多く存在することから四川文明の中心はY-DNA「D1」「D3」の祖先の文明ではないかと考えるのが自然でしょう。

  中国古代神話では黄帝が蚩尤(羌姓、つまり現在のチベット系の祖先らしい)を討伐したそうです。つまり長江文明を滅ぼして拡大を続ける黄河文明が同様に中華大陸の先住民であったY-DNA「D1」遺伝子集団を追い出しチベット高原や四川盆地など黄河文明系が嫌う標高の高い地域に閉じ込め、その一つが四川文明でその代表が三星堆文化と考えられます。つまり呪術文化性の塊のような三星堆文化が41%が縄文人Y-DNA「D」の子孫である我が日本人の琴線に触れる感があるのは当然かもしれません。兄弟遺伝子なのですから。そうすると火焔土器のような極めて高い呪術性を感じる土器を縄文人が作ったのもなんとなく理解できます。

●遼河文明

  最後の北方の遼河文明は最近発掘調査が進み黄河より更に北方にも古代文明が栄えたらしいことが報告され始めています。遺伝子で考えると今でも韓半島に残る古代シーラカンス遺伝子のY-DNA「D1」(韓半島には今でも姜姓=羌姓が残っているが後世のチベット仏教布教時の移住かもしれない)の文明か一緒に行動したとされるY-DNA「C1]か「C3」の文明か、後の日本系沿岸・オホーツク海沿岸の諸族となった「C3c」ツングース諸族やモンゴル族の祖先かあるいはY-DNA「N」のヤクート族などのシベリア諸族の祖先かもしれません。

  ここは燕、渤海など古代中華周縁国家が起きたところで、箕子朝鮮、衛氏朝鮮などの古代朝鮮国家が起きたところです。つまり中華王朝から「東夷」と呼ばれた遼東半島を中心にした東夷諸民族の故地でもあります。遼河の河口は東シナ海-黄海ランドになりますのでこの水没した土地こそが本当の故地でしょう。

  遼河文明は遺伝子的には全くわかっていませんが「O3」の別働隊の可能性もあり、縄文晩期に陸稲稲作農耕文化を日本列島に持ち込んだ集団の故地の可能性も充分あるのです。1908年最初に見つけたのは日本の当時の有力な考古学者の鳥居龍蔵、1935年に大規模な発掘がされました。韓国のウリジナル思想では当然ですが古代朝鮮民族の国家だったと位置付けられているそうです。

いよいよ本題ですが、

    復習ですが、中国の古代神話では長江文明の直系の子孫と考えられている苗族は稲作農耕民族であり、母系集団だったと考えられています。屈家嶺文化や石家河文化は三苗族の祖先の文化の遺跡と考えられています。となると、長江文明の子孫と考えられている弥生遺伝子集団Y-DNA「O2」と「O1」も母系集団だったと考えられます。魏志倭人伝の倭人は文字通り小柄なネグリートで縄文-弥生交配集団とガラパゴス史観では考えていますが、卑弥呼一族は弥生系の母系集団の女王呪術師だった可能性が大です。弥生系はもともと中華大陸から追われてきた長江文明の子孫なので古代性から抜けていない縄文集団に比べれば、やや近代的で国家を形成していてもおかしくはないのです。

  では本題の縄文人は母系制だったのか父系制だったのか?古代チベットの実態がわかると面白いのですが残念ながら今となってはわかりません。また現代チベット民族は「O3」と密に交配をしているため古代の風習は全く残してはいないようです。

  しかし中国古代神話では西王母や人類の創造神とされる女?など女性が大活躍をするので母系制の名残もあったのではないかと思われます。しかも女?は長江分明系三苗族の信奉した神で、、羌族が信奉する水神共工とは対立していたようなので長江文明系の苗族は文字通り母系制で、水神共工は男性神らしいので羌族は父系制だったのかもしれません。

  つまり縄文人大多数派のY-DNA「D2」は父系制だった可能性が大です。残念ながらY-DNA「D」系の羌族は長い間黄河文明族と対立していたため、中国古代神話では共工は洪水を興す悪神として描かれています。しかし中国古典の「国語」では天地を治める最高神が共工で、伏義と女?の長江文明系が取って替わったことになっているので、もしかするとY-DNA「D」を中原から追い出したのはガラパゴス史観で考えていた「O3」遺伝子集団の黄河文明系ではなく、「O2」か「O1」の長江文明系の可能性が出てきました。

  つまり弥生遺伝子集団はかつて大陸から標高の高い地域に追い出した「D1」「D3」と同族の「D2」と日本列島で再開し驚いた可能性があります。また「D」遺伝子集団の風俗習慣も熟知していたかもしれないため、これ以上逃げる場のない日本列島で意外にすみやかに共存できたのではないかと推測できます。

  古典の「国語」は孔子の興した儒教的な思想で書かれていないため孔子に嫌われ中央では無視されてきた書物だそうですが、その分古代中国のことをそのまま書いていると言われているらしいのです。とするとやはり中国大陸の最初の先住民族は水神共工を信奉するY-DNA「D」遺伝子集団で後の羌族などのチベット系民族の祖先であるという可能性が極めて高く、これなら欧米の研究者が主張している東ユーラシア中華大陸の最初の現代人類はY-DNA「D」である、という説がかなり頷けるのです。勿論「O3」漢民族の中国の政府・と研究者は一切認めないでしょうが。

  遺伝子の調査で、中国古代神話はいろいろな読み方ができることがわかり、改めてY-DNA「D」は中国古代神話で水神共工族として伝承されてきたのではないか、という推測にたどり着きました。

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30-25. Y-DNAから見た隼人、熊襲、蝦夷考

  ● 隼人と熊襲(球磨囎唹)そして蝦夷

  縄文遺伝子の技術者集団だった漁労系ハンターY-DNA「C1」と内陸系大型獣ハンター「C3a」遺伝子は日本列島の各地から検出されていますが、九州や東北にも当然のことながらかなり居住していたと考えられます。

  大和朝廷族の記紀などの情報では、隼人も熊襲も南九州の集団だったようです。

● 隼人考

  Y-DNA「C1」は南方から「D」と共に陸だった東シナ海−黄海ランドを遡り、沖縄には港川人という石器時代の遺跡を残しオーストラロイドと最近判明しましたが、そのまま沿岸部を恐らく漁労に適した海辺で拠点を形成しながら、青森まで北上し津軽海峡(ブラキストン線)に行く手を阻まれ定着したため、現状のデータでは沖縄と青森に今でも「C1」としては列島で最大の遺伝子頻度8%以上を残しています。つまり約12人に1人は「C1」なのです、これは驚くべき頻度と言うことができます。オーストラロイドの遺伝子は意外に多いのです。これらから推察すると海と関連が深いような記述の多い隼人は当然「C1」で海洋性の海の男の原点遺伝子でしょう。しかし同じ「C1」遺伝子は沖縄から青森に至るまで沿岸(特に太平洋)各地に残ってきたはずなのです。本来なら隼人は日本列島各地に居住していたはずです。恐らく風土記を詳細に調べれば隼人と同じ風俗習慣の集団の記載が見つかるはずです。

● 熊襲考

  一方Y-DNa「C3a」は韓半島から大型動物を追って南下して来た陸のハンター集団のため、沿岸部には居住せず内陸部に居住していたはずです。九州に「C3a」としては列島で最大の頻度8%を残しています。熊襲の記述は内陸的なので間違いなくY-DNA「C3a」でしょう。恐らく肥後もっこすの形質は「C3a」ではないかと考えられます。海幸彦が「C1a」なら、山幸彦が「C3a」で、大和朝廷族に恭順的だった海幸彦が記紀で良く描かれ反抗的だった熊襲の山幸彦は負けたように描かれたのでしょう。

  陸のハンター「C3a」にとって大型動物、ナウマン象なども獲物だったはずで、長野県の野尻湖にナウマン象の化石が発見されることから、本州にも動物を追って「C3a」は移住したはずです。しかし沖縄では頻度が低く九州南部で多くは留まったようです。寒冷化し始めたシベリヤで寒冷地適応を若干受けた「C3a」は、オーストラロイドの形質そのものだった彫深でいかつい顔立ちの「C1」に対し、ややいかつさが減りツルっとした端正な彫深のイケメン顔立ちに変化をしていたはずです。交配が進んだ現在と異なり、当時は大和朝廷族や純粋な弥生人の子孫とはかなり異なる顔立ちだったはずです。

  多くの弥生人は居住地域が似通っていた「D」のジャガイモ顔系の縄文主流系とは交配をしていたはずですが、ハンター系の「C」とは居住地域がかなり異なるため、古代には交配はあまりなかったと考えられます。   「C3a」は「C1」と較べて独立性や独自の風俗習慣を頑なに守り通そうとした集団だったようです。出シベリアしアメリカ大陸に渡る大冒険を行った「C3b」、ユーラシア大陸の東西に大モンゴル帝国を作った「C3c」など「C3」は大陸的な大冒険遺伝子の集団で、支配したがり屋の搾取遺伝子の「O3」大和朝廷族とは全く相容れないのは当然でした。このため大和朝廷族とは衝突を繰り返し、ハンター集団だったため武力もあり、大和側はかなり手こずったようです。

● 蝦夷考

  Y-DNA「C1」と「C3a」は当然蝦夷の構成遺伝子だったはずです。日本列島で他に蝦夷を構成する遺伝子はありません。「D2」は大和朝廷族に対抗するような武力を持てたはずがありません。

  坂上田村麻呂と戦った「阿弖流爲」等の武力から推察すると、「C1」より大型獣ハンターの「C3a」の方が蝦夷の軍事的な中核だったような気がします。従ってY-DNA「D2」だった当時の原アイヌは蝦夷では全くありません。無関係でしょう。では北日本に残る「ナイ」や「ベツ」などアイヌ語似の地名は何処から来たのでしょうか?

  もっと時代が下がったオホーツク文化人のY-DNA「C3c」のニヴフ族が持ち込んだ内陸地系形を表す「C3c」単語と同じシベリア起源の古住シベリア民だった「C3a」が持ち込んだ単語が似ていた、と言うことだと思います。「D2」ではなく「C3」起源でしょう。もし「D2」なら日本中に「ナイ」や「ベツ」など似た地名が大量に残っているはずですが、そうではないので大和化が遅れた北日本にのみ蝦夷の中核だった「C3」の単語がかろうじて残ったのではないかと思います。

●雑考

  「O2b」は庶民の中では上の土地持ち農民、「D2」は狩猟採集が中心の名もない小作人的な下等庶民だったと思われます。この体制は1000年以上続き、農地解放で小作人が農地を持つことが出来たことでやっと「D2」は名実共に名前が持てるようになったのです(苗字そのものは明治維新時に持てましたが、名実ともに1人の日本国民になったのは戦後で、マッカーサーがこなければ、日本列島は未だに支配階級の「O3」と地主の「O2b」がのさばり、「D2」は貧しい小作人のままだったでしょう。)

●補考

  現代アイヌ民族は本当に北海道の先住民族でしょうか?これは非常に政治的に微妙な問題ですが、ガラパゴス史観的には避けて通れない命題です。もしY-DNA「D2」85%、「C3c」15%の現代アイヌ人が先住民族なら、日本列島に住む全てのY-DNA「D2」と「C1a」、「C3a」遺伝子国民も同様に石器-縄文時代から列島に住んできた先住民になります。人口が少なく近代化が遅れ古い文化を残してきたという理由だけで先住民扱いになるのは大いに疑問に感じます。

  現在日本人として扱われている古代遺伝子「D2」「C1a」「C3a」は、侵略征服者が「O3」漢族で、現代アイヌ人の古代遺伝子「D2」は侵略征服者が「C3c」古代ニヴフ族だったと言うだけの違いでしかありません。

  「O3」は大和朝廷族や武士団族を形成し、日本と言う国家を確立するために猪突猛進し、我々縄文−弥生交配族の子孫は従わされて、幸い近代化し今に至ります。一方古代ニヴフ族は「D2」に対し熊祭りなどシベリア民独特の辺境風俗習慣を押し付けましたが、旧態依然のまま近代化できず我々縄文の同胞の「D2」を辺境民族に陥らせた責任は重大です。現代アイヌ人の中の85%を占める「D2」遺伝子グループは同じ「D2」の日本人に同化することが歴史の自然の流れだと感じます。ただし残り15%の古代ニヴフ族直系の子孫「C3c」は望むなら先住民で残ってもおかしくはありません。mtDNAも同様で「M」系は日本人に、20%の「Y」系は古代ニヴフ族直系の子孫として先住民で良いかもしれません。

  しかし漢族の歴史を見ると同じ民族でありながら、「O3」に同化した他遺伝子群は今は完全に漢族の一員で、同化しなかった群は53近くの少数民族として認定され辺境民扱いされています。土地が繋がっていても孤立化を選ぶ集団は必ずいます。しかし北海道はたまたま津軽海峡で隔離されていたため、「O3」の侵略が及ばず辺境に残っただけです。明治以降やっと「O3」の支配が北海道にも及ぶようになった現在、現代アイヌ民族として孤立の道を歩む必要は全くないはずです。日本各地にその土地の古い文化が継承されているように、アイヌ文化は北海道の土地の古い文化として日本文化に同化して残ればよいはずです。

  これは歴史の必然のように感じます。われわれ縄文と弥生のご先祖が共存し交配し同化してきたように、望むなら「C3c」も今からでも同化すればよいのです。「O1a」の文化かもしれない”なまはげ”や”トシドン”だって奇祭です。「C3c」の熊祭りだって奇祭として残せばよいだけです。日本列島は様々な遺伝子が混じり合って出来上がった遺伝子集団です。本州以南には全くない「C3c」が新たに仲間として入って何もおかしくはありません。全てを飲み込むのが日本列島なのです。遺伝子集団とはそういうものです。

以上 ◆
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16-2. 日本語の母体のY-DNA「D」縄文語がホモサピエンスの祖語かもしれない

  今朝の朝日新聞にまさしく日本学の研究者・マニアには衝撃的なニュースが小さく掲載されました。恐らく2012年の日本学最大のニュースの1つになるでしょう。
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The origin and evolution of word order

Murray Gell-Manna, Santa Fe Institute and Merritt Ruhlenb, Department of Anthropology, Stanford University

Contributed by Murray Gell-Mann, August 26, 2011

Abstract

Recent work in comparative linguistics suggests that all, or almost all, attested human languages may derive from a single earlier language. If that is so, then this language?like nearly all extant languages?most likely had a basic ordering of the subject (S), verb (V), and object (O) in a declarative sentence of the type “the man (S) killed (V) the bear (O).” When one compares the distribution of the existing structural types with the putative phylogenetic tree of human languages, four conclusions may be drawn.
(i) The word order in the ancestral language was SOV.
(ii) Except for cases of diffusion, the direction of syntactic change, when it occurs, has been for the most part SOV > SVO and, beyond that, SVO > VSO/VOS with a subsequent reversion to SVO occurring occasionally.
Reversion to SOV occurs only through diffusion. (iii) Diffusion, although important, is not the dominant process in the evolution of word order.
(iv) The two extremely rare word orders (OVS and OSV) derive directly from SOV.




Conclusion:

The distribution of word order types in the world’s languages, interpreted in terms of the putative phylogenetic tree of human languages, strongly supports the hypothesis that the original word order in the ancestral language was SOV. Furthermore, in the vast majority of known cases (excluding diffusion), the direction of change has been almost uniformly SOV > SVO and, beyond that, primarily SVO > VSO/VOS. There is also evidence that the two extremely rare word orders, OVS and OSV, derive directly from SOV.

These conclusions cast doubt on the hypothesis of Bickerton that human language originally organized itself in terms of SVO word order. According to Bickerton, “languages that did fail to adopt SVO must surely have died out when the strict-order languages achieved embedding and complex structure” (50). Arguments based on creole languages may be answered by pointing out that they are usually derived from SVO languages. If there ever was a competition between SVO and SOV for world supremacy, our data leave no doubt that it was the SOV group that won. However, we hasten to add that we know of no evidence that SOV, SVO, or any other word order confers any selective advantage in evolution. In any case, the supposedly “universal” character of SVO word order (51) is not supported by the data.
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  語順のルーツはSOVだと言うことがアメリカ科学アカデミー紀要(業界用語でPNAS=プロナス、当方の学生時代はProNASと呼んでいました)に発表されました。 つまり日本語やチベット語などY-DNA「D」遺伝子集団の文法である語順、S(主語)・O(目的語)・V(述語)が欧米語等のSVOより古いことがわかり、 しかもホモサピエンスの祖語だろう、との驚異的な言語学上の発見です。

  これは遺伝子の調査結果と完璧に合致します。我々古代シーラカンス遺伝子Y-DNA「D」は古代の出アフリカした当時のホモサピエンスの形態を留めていると言うのが欧米の研究者の結論です。 特に「D*」100%のアンダマン諸島のOnge族、Jarawa族は出アフリカ当時の形態をそのまま残していると信じられています。ならば当然言葉も出アフリカ当時のままのはずです。 言葉は生き物でその時代のリーダーの決断で言葉は採用されるため、ドンドン変わります。そして征服者の人口が多く、経済力もあれば非征服者の言語はあっという間に征服者の言語に変わってしまいます。

  ところがOnge族や、Jarawa族は外来者を殲滅するという古代習慣を強く持っていたため、遺伝子を保ってきたわけですが、当然言葉も保ってきたはずです。 と言うことが今回の発表で間接的に証明されたことになります。

  日本語は長い間孤立語として扱われてきましたが、縄文語から熟成したY-DNA「D2」日本語こそがY-DNA「D1」チベット語と並んで、 出アフリカした当時のホモサピエンスの言葉(文法)を維持し続けてきた由緒正しい言葉だと言うことが正にアメリカの研究者によって証明されたに等しいのです。

  マレー・ゲルマン博士のチームの仕事ですが、なんとマレー・ゲルマン氏は言語学者ではなく、1969年「素粒子の分類と相互作用に関する発見と研究」で ノーベル物理学賞を受賞した物理学者でクォークの提唱者の一人です。 恐らく筋金入りの言語学者ではないことが柔軟な発想を生んだのでしょう。西欧優越主義の言語学者なら絶対に欧米語のSVOを祖語として主張すると思われるからです。 何はともあれ縄文文化・時代を矮小化したい「O3」学者に取っては目障りな発表となりました。

  このニュースの重大さは、何故日本列島人はY-DNA「D2」縄文人の文法を守り続けてきたのか?という点です。 「D2」縄文人が圧倒的な文化を確立し、技術者集団だった「C1」、「C3a」縄文人が土器つくりなどで「D2」の精神風土を支え、 後からボートピープルとして断続的に韓半島から水田稲作農耕技術を携えて流れてきた呉系長江人「O2b」の子孫も圧倒的な多数派の「D2」と敵対せず、 その精神風土を受け入れたため言語の文法も多数派の縄文文法を受け入れたと考えられます。

  「O」は「R」などと同じ新興遺伝子集団です。既にSVO文法だったはずです。 我々日本人は語順が変わってもそれほど奇異に感じず意味が通じるような適当にあいまいな言葉になっているのはこの「O」の人口と、文化がしっかりと根付いているためです。 基本は縄文語ですが、呉系の長江語も漢語の語順でもその中間でも日本人は融通を利かせて理解してしまうように共存してきたからなのです。 そして或る動作を強調したい時、我々は平気でSVOになるのです。なぜならSVOの方がキツく聞こえるからです。SOVの方が聞こえ方がやさしいのです。これが縄文の精神風土なのです。

  そして更に後から武装侵攻者として韓半島から暫時流れてきた大和朝廷族や武士団族などのSVO文法の「O3」集団は、朝廷内や官僚エスタブリッシュメント階級の中ではSVO漢語を話していたにも関わらず、 全国をまとめるために縄文語文法を受け入れることにしたのだと思われます。 そして縄文語に翻訳するために開発したのが「かな」、「カナ」なのでしょう。もしこれがなければ、縄文人は漢語を全く理解せず、日本の統一は相当遅れ、 日本列島は文化レベルが立ち遅れ西欧列強の植民地化していた可能性が大です。当時の大和朝廷の上層部の誰かが縄文語を認め、縄文人に指示命令するために「かな」「カナ」の開発を命じたのでしょう。 この人物こそ本当は歴史に名を残すべきなのでしょうが......。

  またこのニュースは、最近の研究で、人類の祖先は50000年前頃に突然洗練された道具を使ったり、絵画などの芸術活動を始めた、とも書いていますが、これは当たり前のことです。 中東でネアンデルタール人と遭遇し交配し、彼らの文化を遺伝子とともに受け継いだけに過ぎません。もしかするとSVO文法はネアンデルタール人の文法だった可能性も実はかなりあるのです。

  ・ホモサピエンスは本来SOV文法、
  ・ネアンデルタール人はSVO文法だったのかもしれません。

  なかなかおもしろくなってきましたね。当ガラパゴス史観のY-DNA/mtDNAデータマイニングによる推論が、歴史の真実に迫っている可能性が高まってきつつあります。 データマイニング手法は本業のマーケティングだけでなく、古代日本学にも有効なようです。



以上

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