1-10. 北方民族度調査 日本列島に古代北方民族はやってきたのか?
8月9日の新聞に古代中国北方の特徴的なオルドス式短剣が滋賀県で発掘されたと言う興味深い記事が出ました。
気の早い人は、ほらやっぱりツングース系騎馬民族は日本列島に来ていたじゃないかと、と勇んでいるようですが、
「騎馬民族」とは言っておらず、あくまで「北方民族」です。 Y-DNA調査の結果は大和朝廷族も武士団族も共にY-DNA「O3」で北方騎馬民族Y-DNA「C3c」ではないことが明白になっています。 しかし日本列島のY-DNA調査の結果は東ユーラシア大陸で北方系と言えるY-DNA「NO」が0.8%、「N1/N1c」が0.9%、「Q1/Q1a1」が0.3%、 痕跡程度の「P*」及び「C3c」が存在することを示しています。 ではこれらの北方系のY-DNAは一体どこからいつごろやってきたのか?当ガラパゴス史観は唯一の可能性として、 プロト漢族の一部だった「O3」大和朝廷族や武士団族が朝鮮半島の中華王朝の出先機関にいたころ、周辺に居在していた北方民族の一部が 集団に組み込まれ、 「O3」が朝鮮半島の生き残りに負けて半島を追い出され「O3」武装侵攻集団として日本列島に渡ってきたときに配下だった北方系集団も 一緒に来たのだろうと考えています。 Nonaka et al.の県別Y-DNA調査時にたった2例調査した大阪の1例がなんとY-DNA「NO」だったことは宝くじに当たるようなものだと 書きましたが、 関西圏のY-DNA調査はほとんどされていないのが実態です。もし本気で関西圏のY-DNA調査を実施するとY-DNA「O3」や「NO」、「N」と「Q」の 頻度は大幅に増えるのではないかと推測しています。 そのくらい半島系の形質は日本人に特に旧都周辺に多いと考えています。 このような関西圏の精査は特に縄文文化の日本文化に対する影響を矮小化したい御用学者達にとっては都合が良いはずなのですが、 何故やらないんでしょうね? 理由としては大和朝廷族が縄文・弥生先住集団からみると朝鮮半島を追い出された新参の武装侵攻集団でしかも現在の漢・韓民族と出自を 同じくする「O3」であることが 世界中に対して明白になるので都合が悪いからなのでしょう。 とにかく現在の日本列島は痕跡程度のY-DNA「C3c」も含め北方系のY-DNAは3%前後です。騎馬民族王朝は残念ながら話題ではあっても 実在しなかったことは間違いありませんが、 朝鮮半島にいた古代北方民族の騎馬戦闘力を利用したのが大和朝廷族と武士団族であったことは間違いありません。 それに対し、大型獣狩猟民族だった縄文系の海洋系Y-DNA「C1a」と内陸系「C3a」は戦闘力はあっても騎馬という機動力を 持たなかったため日本列島の主役にはなれずに終わりました。 鯨や熊・猪の狩猟力では機動軍事力は不要だったため騎馬戦闘力は育たなかったのです。結局、隼人、熊襲、蝦夷などとして 大和朝廷に組み込まれて消えてゆくしかなかったのです。 では、北方民族は日本列島に来なかったのか?来たのか? 関西圏のY-DNA調査がほとんどなされていない現時点での結論としては、北方民族は日本列島にやってきていたが、 大和朝廷族や武士団の主役としてではなく集団の一部としてやってきていたに過ぎない、ということです。 では、現在東アジアにY-DNA「NO」、「N1/N1c」、「Q1/Q1a1」及び「P*」の存在する現存民族はどんな分布をしているのか、 県別調査の結果が下記です。 Y-DNA「NO」はシベリア・ウラル系のY-DNA「N」とこれぞ極東遺伝子Y-DNA「O」に分化する直前の大変希少な移行期のY-DNAです。 こんな希少なY-DNAが日本列島に現在も0.8%程度(日本男子で96万人近くも存在する計算なのです)存在すると言うことは誤差の 頻度ではありません。 しかも県別データでは5倍の4%もあり大阪でたった2例だけ検査した中の1例(50%の確立)であると言うことは、 関西圏(特に大阪、京都、奈良、滋賀)を徹底的に調査すると一体どのくらいのY-DNA「NO」が発見できるか? 現在の地方別データの0.8%がもっと飛躍的に増加する可能性が十分にあるのです。(和歌山と三重は逆に縄文系の 海洋系ハンターY-DNA「C1a」と山岳系ハンター「C3a」が大幅に増えるはず) この極希少なY-DNA「NO」が朝鮮半島では頻度が更に低く0.1%しか頻度はなく、中国の少数民族ではやや高めに出現しY-DNA「O3」 頻度も高いことから、「NO」は現在も残っている東アジアの「NO」含有民族と共通の先祖が当時朝鮮半島に居在しており その後の朝鮮半島事情で「O3」の分散に伴いばらばらになった可能性が大です。 当時の東アジアは魏志東夷伝等の中国王朝史を精査し民族の流れを突き止められれば、日本列島に流れてきた北方系集団の姿が 見えてくると思います。 Y-DNA「N」は北ヨーロッパではウラル系、アジアではシベリア系でいずれも典型的な北方系のハプロタイプです。 もし日本列島に集団でやってきていたなら出現頻度はもっと多いはずなのですが、少なすぎるためやはり朝鮮半島から「O3」と一緒に、 他の「Q」や「P」などに混じってきた可能性が大です。 Y-DNA「C3c」はモンゴル系、ツングース系に典型的な東北アジア騎馬民族のコア亜型です。現在の日本列島のY-DNA調査では 痕跡程度しか発見されていませんが、 関西圏を詳細に精査すると大幅に頻度アップする可能性はまだあるのです。そうすると騎馬民族王朝説も生き返るかもしれません。 最後の北方系と思われる中で最も頻度が高いY-DNA「NO」は現存している民族/部族は添付のリストの日本人を含め現在はまだ 13民族程度しか見つかっていませんが、 極めて希少なY-DNAハプロタイプであるためこの中に先祖を同じくする北方系同族がいる可能性はかなり大きいでしょう。 特にオルドス近傍に現在も居住するダウール族やホジェン(ナナイ)族等が今でも「NO」を残していると言うことは北方系の 同根候補です。 では、オルドス地方(黄河が180度コの字に曲がる内モンゴルの地域)で用いられたオルドス式短剣を含むオルドス青銅器文化が 栄えていた春秋戦国時代(紀元前8世紀〜紀元前3世紀)は弥生時代中期以降になります。春秋時代の越民を構成していたと思われる Y-DNA「O2a」は春秋後、越遺民が稲作適地を求めて南はヴェトナムを経てインド亜大陸まで逃げインド亜大陸に稲作農耕と「O2a」 ハプロタイプを残したのに対し、 同遺伝子族だった呉遺民は北に逃げ欧米の研究者によると満州周辺でY-DNA「O2b」に分化し(当ガラパゴス史観としては呉時代に 既に分化していた可能性も大と考えていますが) 現在でも10%強の頻度を満州地域に残しながら稲作適地を求め南下し朝鮮半島南部に30%強ものハプロタイプを現在まで維持し、 更に稲作適地を求め南下し日本列島に30%強もの頻度を残したわけですが、その南下の途中に満州・朝鮮半島付近にいた北方系民族を 連れてきた可能性も無いとは言えません。 弥生時代早期の遺跡からオルドス式短剣が出土するとこの推測が成り立ちますが、今のところ弥生時代中期以降の遺跡のようなので 推測は難しいところで牽強付会の域を出てはいません。 一方Y-DNA「NO」はボルネオやフローレス等の「O3」が移動した東南アジアの島々にも点在しています。 とするとやはり「NO」は「O3」集団に含まれて移動していたのではないかと考える方が自然です。日本列島でも縄文晩期には陸稲が 持ち込まれていたという発掘もあり、 華北住人であったY-DNA「O3」は、中華大陸で覇権競争に負けたプロト漢族が、様々な機会に日本列島に流れて来ていた可能性があります。 いずれにせよY-DNA「NO」を含む北方系の民族/部族の小集団が紀元前後の日本列島に来ていたことは間違いないところでしょう。 東アジアや東北アジア、北アジアの紀元前後の民族/部族移動がもっと明らかになってくると面白くなるでしょうね! 以上 表紙に戻る |