1-13. 中央アジアの標準言語テュルク語民族の遺伝子構成はどうなのか?





































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1-13. 中央アジアの標準言語テュルク語民族の遺伝子構成はどうなのか?

  共和国トルコ語を話せると中央アジアはほぼ通訳なしで旅行が出来ると言われており、かつてはシルクロード/中央アジアのことをトルキスタンと呼んだこともあったほどです。
  中国正史に出てくる四夷の北狄がテュルクの最初の記述と言われているようです。その後の丁零や高車は当ガラパゴス史観の若い頃40年前ぐらいには既にテュルクではないかと言われていました。
  そして明らかにテュルクと確認されたのが6世紀の突厥と鉄勒です。特に突厥はテュルク語・突厥文字で書かれた碑文でテュルクに間違いない証明されました。 テュルクは6世紀には漢民族に対抗する大国を打ち建てるほどの力を持ったのです。
  欧米では例えば、Y-DNA「R1a」はスラブ系、「R1b」はケルト系、「I1」はノルマン系、「I2」はバルカン系、「E1b1b」はラテン系、「J1」はメソポタミア農耕民系等、 民族と遺伝子がかなり密接に結び付いています。
  極東でもY-DNA「O1」/「O2」は長江文明系、「O3」は黄河文明系、「D1」はチベット系、「D2」は縄文系、「O2b」/「O2b1」は弥生系など、やはり文化・民族と結びついています。
  では中央アジアの標準語であるテュルク語系民族は結びつく典型的な遺伝子が果たしてあるのでしょうか?今回調査をしてみました。

  実は当ガラパゴス史観がまだ20代の会社研究員だった頃、会社で初めてのイスラム圏の駐在員としてイスタンブ―ル大学に客員研究員として出向しました。 トルコ人は日本人に対し特に親近感が強く(何と言ってもトルコと敵対していたロシアのバルチック艦隊を破り、  一方和歌山沖で難破したエルトゥール号乗員の救出などで)、 当ガラパゴス史観も親しくしてもらったことと、もともとアジア系であったトルコ人には親近感があったことで、不自由のない駐在員生活を送ることが出来ました。   イスタンブールには駐在員の家族を入れても20人程度の日本人しかいなかった時代でした。
  と言う訳で、もともとテュルクにはかなり興味があるのですが、遺伝子的には良くわからない存在でした。そこでこれまで集めた海外論文を引っくり返し、 テュルク語の4群分類に従って、Y-DNAデータを並べて見ました。   それなりに面白いデータになりましたので報告します。

  a) Siberian Turkic (Northeast) :
    主要遺伝子は、北部がY-DNA「N1c1」、南部がY-DNA「R1a」にはっきりと分かれます。
    恐らく最も古いテュルク語系と思われます。特にヤクート人はほぼ純系のY-DNA「N」
    遺伝子民族です。
  b) Karluk Turkic (Southeast)  :
    Y-DNA「N1c1」は少数派になり、Y-DNA「R1a」がやや優勢だが、遺伝子交配が進み
    ユーラシアの遺伝子がほとんど網羅されている。
  c) Kipchak Turkic (Northwest)  :
    東部のカザフはY-DNA「C3c」が主要遺伝子でモンゴル帝国の影響がくっきりと
    残っている。西部は明らかにY-DNA「R1a」が優勢。
  d) Oghuz Turkic (Southwest)   :
    テュルク代表のトルコ共和国が属するが、Y-DNA「J2」が優勢となる。
  e) 例外             :
    Bashkirはケルトやバスクと同じくY-DNA「R1b」が主要遺伝子。

  以上で、テュルク語群の典型遺伝子は存在しないが、居住する地域によって上記4タイプのY-DNAが主要もしくは優勢で、 テュルクが西に進むに従い交配してきた遺伝子がはっきりと読み取れます。

  現在のY-DNA分布と中国正史に登場する殷周時代の四夷の位置取りを見ると
 ●北狄や続く丁零、高車、突厥など一群の草創期のテュルク系は恐らくY-DNA「N1c1」
    だろうと考えられますが、

  ・東夷の夷が弓を持つと言う意味ならY-DNA「C3c」騎馬民のモンゴル系・ツングース系
     しかいないはずですが、従順な集団だったらしいということになると
     該当は?です。
  ・西戎はY-DNA「D1」のチベット系しか候補はいないはずですが、Y-DNA「D」は、
     アンダマン諸島のY-DNA「D*」を見ると侵入者は皆殺しにするが、自ら侵略は
     しない穏やかな遺伝子族のはずなので、侵略・略奪を繰り返していたとなると
     むしろ当時既にY-DNA「O3」が交配して牛耳っていた可能性が高いです。
     もしくはY-DNA「R1a」/「R1b」に分化する前の「R1」か分化直後の「R1a」の
     可能性も考えられます。
  ・南蛮は?、現在も居住している長江文明の子孫のY-DNA「O2a」でしょう。

 ●テュルクが中央アジアに移動したときに、Y-DNA「R1」から分化したインド・アーリアン
    「R1a」と密に交配し新たな遺伝子構成に変化し、
 ●モンゴル帝国/キプチャク汗国のもとで征服者のジンギスカン遺伝子Y-DNA「C3c」が
    主要の集団に変化し、
 ●チムール帝国、セルジュクトルコ帝国、オスマントルコ帝国と西進するに従い、メソポタミア
    の農耕民遺伝子集団Y-DNA「J2」を取り込み農耕民化したようです。
    その際に既にアナトリアに居住していた、Y-DNA「R1b」も取り込んだようです。
    しかしBashkirの「R1b」の起源はまだ?です。

  しかし大きな謎は、テュルクと交配した集団は何故テュルク語を採用したのだろうか?と言う点です。   ブルガリアのBulgar人はもともとテュルク系の集団でしたが、「R1a」に取り込まれスラブ化してしまいました。   オスマントルコ帝国の征服時に再度テュルク化する機会はあったのですが、スラブを維持したようです。
  他の集団もスラブ化、モンゴル化、イラン化やアラブ化しても不思議ではなかったはずです。   最も合理的な推測では、イスラム教を取り込んだことがテュルク語を守ったことになったのではないかと考えられます。   トルキスタン=イスラム教と言うのが現代の状況なのです。   コーランの経典教育の共通言語としてテュルク語を採用した?と密接な関係があると考えるのが妥当でしょう。
  それでも何故アラビア語ではなかったのでしょうか?テュルクの遺伝子構成にアラブのセム系Y-DNA「J1」が   極めて少ないことが結果として経典の単語はアラビア語でも教育システムとしてアラビア語と近縁にならなかったからかもしれません。


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1-13. 中央アジアの標準言語テュルク語民族の遺伝子構成はどうなのか? rev.2

  とっくの昔に閉鎖した昔々のホームページに載せていたトルコ共和国駐在時代の回顧録を一時的に抜粋して復活させてみました。トルコ共和国に興味の或る人だけ読んで下さい。
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◆ トルコ共和国駐在 イスタンブール回顧録 ◆

  1975-1976年のトルコ駐在時の思い出をボケないうちに書き残す事にしました。但し全て約40年前の話しで現在のトルコではありません。 日本だって40年前は今と相当違います。思い出す都度書き足してきたので最初の2倍くらいに長くなってしまいました。

0.プロローグ 1.何でトルコなの 2.トルコ共和国? 3.堕落したムスリム 4.アタチュルク
5.徴兵制 6.税金 7.治安 8.気候 9.一族郎党
10.しつけ 11.顔 12.第一歩 13.客員教授 14.通勤
15.大学の昼食 16.敬称 17.引越し 18.1トンあるのに! 19.冬は凍る冷却水
20.オリーブ油 21.ケバプ(カバブ) 22.硬水 23.トルココーヒー 24.トルコチャイ
25.ヨーグルト 26.牛肉 27.ラッキ 28.羊の脳みそ料理 29.焼き魚
30.シェイタン 31.家具 32.オーバーコート 33.TV放送 34.エーゲ海ツァー
35.ポレオン? 36.原始キリスト教会 37.ウィーン 38.アントワープ 39.ロンドン
40.サロニキ 41.ワーキングビザ 42.昼休み4時間 43.領事館 44.砂の器
45.子連れ狼 46.ボスフォラス海峡 47.ウシュクダラ 48.カパルチャルシュ 49.メアシャムパイプ
50.スレイマン大帝 51.トプカプ宮殿 52.セントソフィア 53.ローマ水道 54.インフレ1
55.ヨーロッパ学会 56.インフレ2 57.アルメニア人 58.アエロフロート 59.超短縮トルコ講座

0.プロローグ
  1975年3月20日夜、羽田国際空港から、当時の外貨持ち出し限度額の300ドル(1ドル360円だった)を持って、初めての国際線に乗った。見送りは母親と妹だった。 当時JAICAに勤めていて海外駐在経験豊富な亡き叔父からネクタイをはなむけにもらった。今でもまだ持っている。 今ではどうってことのない海外渡航も当時はまだ一大イベントだった。
  簡単に行ける今と違い、エールフランスのアンカレッジ経由で、22時間かけて明け方フランスはパリに着いた。食べても食べても食事タイムがやってきて、 これでもかというくらい食べさせられた、まるでブロイラーになった気分だった。良く寝れずグッタリしてやっとパリにたどり着いた。 苦痛以外のなにものでもなかった。
  会社の欧州支社で打合せ後、夕方のオーストリアン航空でオーストリアのウィーンに入った。ここは欧州支社の東ヨーロッパ支店があり、トルコの担当地区であった。 ここで数日今後の打合せ後1975年3月26日にオーストリアン航空でいよいよイスタンブールに到着した。出迎えは現地代理店の営業マンだった。 一見アラビア人風の背の高い男は「ここは日本と違い全てヤワシヤワシだぞ」といった。忙しいアクセクした日本人に、トルコでのやり方を教えてくれた。 「ヤワシ」は「ゆっくり」とか「自然のままに」とかの意味である。

1.何で行くことになったのか?
  そもそも何をしにイスタンブールに行く事になったのか。今ではツアーで当たり前のイスタンブールだが、当時は名前は有名でも、ツアーは滅多になかった。 当時勤めていた理化学機器メーカーは世界的電機メーカーのP社と並ぶ 電子顕微鏡(下図を見て下さい、人と比較して大きさがわかるでしょう)の世界的トップメーカーで 輸出が盛んなGlobalな理科学機器の専業企業であった。 予想通りコンペティターのP社との競争になったが、先端機器のためメンテナンスエンジニアが駐在して欲しいという客先の要求を受け入れ日本企業が勝った。 そこで小生が「人質」となって行く事になった。
  イスラエルに駐在しているエンジニアはいたがイスラム圏では会社初の駐在だった。マスターをでて当時会社に入って3年目だった。 客先とはイスタンブール大学医学部組織学教室のトュルキャン教授(女性教授)であった。 教授のライバルの同じ建物の2階の別の男性教授はP社の電子顕微鏡を購入し、教授同士とメーカー同士の威信をかけた競争になった。 結局P社はエンジニアの駐在を断ったため、トュルキャン教授は実績で差をつける絶好のチャンスとみてエンジニアの駐在を購入の条件にしてきた。とにかく、 かくして初めての海外がイスタンブールという予想外の国になった。

2.トルコ共和国とは?
  とにかくアメリカでもフランスでもないことは確かだった。駐在が決まった時、真っ先に訪問したのはトルコ大使館だった。 言葉は何語?歴史が大好きな小生にとってセルジュクトルコ、オスマントルコやトルキスタンなど中央アジアのトルコ語の国々などトルコ史はかなり詳しかったが、 実際のトルコ共和国といえばイスタンブール、ウシュクダラ、アンカラ、ペルガモン宮殿、トロイの遺跡ぐらいしか知らなかった。これでも相当知っているほうだった。 会話の本を大使館で紹介してもらい、いろいろガイドブックをもらって勉強した。


  わかったことは平均年収は当時400トルコリラ(税込み)、しかも庶民の平均は200リラ、大学を出ると初任給が1000リラという明治時代のような大卒エリートが存在するということだった。 当時小生(28才)の給料は8000リラ相当であった。 イスタンブール大学が支払ってくれる給与は税引き後手取4800リラであった、 そこで残りの3200リラ相当額は会社に積み立ててもらうことにした。全部もらっても使い道がないのである。この8000リラは当時トルコの国立大学の教授の給料でエリートの収入であった。 このくらい日本との収入格差がすごかった。これはチョッと意外であった。 あれだけ歴史がある国なのにこんなに格差があるとは。
  トルコ共和国のエリート階級は、共和国建国当時フランスが援助したため皆フランス語を話すが、新興階級である大卒族はアメリカに留学をするためほとんど英語を話す。 一方労働者階級はドイツとオーストリーに出稼ぎに行くため皆ドイツ語を話していた。 このため「何語を話す」かでその人の階級(といってもイギリスの階級のように厳然とした階級があるわけではなく、 古くからの金持ちと新しい学歴人と田舎から出稼ぎにきた人々のことである)がわかる珍しい国であった。小生は当然英語であった。

3.ラマザンと堕落したムスリム
  最近アフガニスタン問題で有名になったラマダン(トルコではラマザン)では、街門で羊を解体しているのである。なかなか印象的な光景だった。 しかしトルコの人達は朝も昼も食べていたような気がする。 確かに大学でも時間になるとメッカに向かって祈る人々が用務員さんの中にはチョッとだけ見られたが、ほとんどの人は祈りもラマザンも守っていない。 それでも明け方からコーランを読む放送が街角からスピーカで大きな音で流れ、さすがにイスラム教の国だと初めは起きてしまったが、そのうち慣れて子守唄に聞こえるようになり起きなくなった。
  日本人は海外からは仏教徒と言われているが、当のわれわれにそのような意識を持っている者はほとんどいないように、トルコ人も自分がムスリムと思っている人間はかなり少ない、 少なくともエリート階級や新興階級の人達にはほとんどいない。 だから周囲のイスラム国家からは堕落したムスリムと呼ばれている。

4.ケマルアタチュルク
  欧米列強の解体にあったトルコが、列強(イギリスかどこか)の後押しを受けたギリシャによって長年の報復として占領されかけたとき、 敢然と現れトルコを救ったのがケマルパシャ(ケマル将軍)である。彼はフランスの協力を取り付け軍隊をまとめギリシャと戦い勝った。
そしてトルコの父(アタチュルク)と呼ばれ、紙幣にはかれの肖像がが描かれ、紙幣をお尻のポケットに入れてはいけないと小生も教えられた。そして1年半教えを守った。
  この時、トルコの文明開化にフランスが協力をしたため、政治家など支配層の上流階級は全てフランス語を話すようになった。

5.徴兵制
  大卒や或る程度の学歴の若者は、徴兵免除ではないが短期で済み、しかも初めから士官で任官するというエリートである。電子顕微鏡の写真担当の技師サンは専門学校卒で、 私がいる間に徴兵されたが制服の士官で任官した。制服はカッコ良かったネ!ところがあっと言う間に任期満了で除隊し戻ってきた。 しかしこの学歴差別は何なんだろう!!! これが庶民だと数年一兵卒で徴兵される。何処の国でも社会でもエリートは特別扱いされるんダネ!

6.税金
  軍隊があるため給与の40%が税金で徴収され、維持にまかなわれる。すごい税率である。トルコはアヘンの産地でも有名であるが、 当時からアメリカがまとめて購入しているらしいとうわさされていた。アメリカ軍内にアヘンが蔓延しないように未然に防ぐためらしい。今でもそうかはわからない)。

7.治安
  治安は極めて良く、アパートぐらしで1−2回部屋のカギをかけ忘れて寝ていた事があったが、わざわざ起こしてくれて、注意してくれた。夜、町を歩いていても危険は全く無く、 トルコからの帰国1年後新たに駐在したアメリカのボストンとは大違いであった。 ボストンはアメリカでも治安は良いほうだったがダウンタウンを夜1人で歩くことは、何をされても文句が言えないほど危険なところである。それでもかってのトルコは危険も多く、 女性は全財産を金の腕輪にして常に身につける事を習慣にしていた。 つまり手首を切り落とされない限り、体1つで逃げれば全財産は守れるのである。これは40年前でも一般的だったが、 但しこれは労働者階級の婦人だけでエリートや新興階級の婦人はしていない。

8.気候
  湿気がすくない以外は、温度は日本と変わりなかった。四季もある、このため日本人には暮らし易かった。 ただ、土が剥き出しの道路が多くホコリは多かった。このためワイシャツも汚れが早かった。

9.一族郎党
  当時のトルコは貧しい、とくに農村部は極めて貧しかった、一族の1人が都市部に出稼ぎにでてきて定職を見つけると、一族郎党が何十人とその1人を頼ってでてくるのである。 大学でも私がいる間に採用され、私にとくに親切にしてくれたチャイ(トルコ紅茶)やトルココーヒーをいれる担当の若い用務員さんも アッという間に20人の家族親戚が田舎から出てきたと言っていた。 つまり彼は成功者なのである。私は帰国する際に、トルコで購入した普段用の冬のランチコート(500リラぐらいした)をお礼に彼にプレゼントしてきた。 彼の嬉しそうな笑顔はまだ覚えている。なぜなら彼らはコートは特に高く買えない為、冬でもコート無しなのである。(勿論40年前の話しだが)

10.しつけ
  他人のこどもでも悪いことをしていると判断すると、ビンタや叱責でしつけをする。もう日本にはない光景だね。勿論40年前の光景ですが。

11.顔
  トルコでどちらかというとアジア系の顔をしているのはタタール系だ。ロシアの隔離政策で沿海州から黒海北部のクリミア半島に強制移住させられたタタール居住区がある。 そこからの移住者だ。共和国トルコ人は前述のように中東系にちかい。 しかし数百年もの間世界最大を誇ったオスマン帝国は多種多様な人種を抱えていたので様々な顔のトルコ人がいる。ハンガリーやオーストリーも支配下だったので白人そっくりな人も多い。 アラビア系も多い(アラビアのロレンスはアラビアを支配下においていたオスマン帝国末期の欧米列強による帝国解体時の実話である)。

12.第一歩
  営業マンに案内されたホテルはアクサライ(東京で言えば下町の両国か錦糸町か)(下図では下部の左端のわずか外辺りになる)というイスタンブールの中心付近にある ビジネスホテルだった。そこに2週間宿泊し、代理店と打合せをしながら、大学の受入体制が整うのを待った。 先ずしたことは市街地図を買うことだった。一体自分は何処にいるンだい?このホテルはトルコでは現地人が宿泊をする普通のビジネスホテルだがびっくりしたのは 2週間宿泊して確しか支払ったのはわずか400リラだった。 あとでわかったがインターコンチネンタルやシェラトンなどの国際的一流ホテルは200-400リラ/泊だった。 トイレは日本と同じボットンスタイルでなんとなく拍子抜けした。紙はごわごわでかなり皮膚が強くないと大変だと悟った。
  2週間たって大学の受け入れが整いトュルキャン教授に初めて挨拶に伺った(つまりトルコの国家公務員になったのである)。大学は学部ごとに市内に分散し、 医学部はチャパと呼ぶ西の市街地からやや外れたところにロケーションしていた。そこでアパートを探したいので紹介して欲しいと依頼した。 教授の答えは予想外で、「下宿しなさい」だった。言葉も全く違うためアパート暮らしは難しい、知人(老婦人)が英語ができるし、子供が独立し部屋が余っているのでそこに入りなさい、 と半ば強制的に収容所に入れられてしまった。あとでわかったのは多少でも老婦人の小遣いになればということだったらしい。 家賃400リラを払う事になった(朝食、夕食付きである)。結局3ヶ月お世話になった。ただし朝食はコンチネンタルであったのは覚えているが、夕食は全く覚えていない。 ちなみに日本総領事館は当時タクスィムスクエア(広場)を地図で1cmぐらい東に行ったところにあった。



13.イスタンブール大学医学部
  イスタンブール大学医学部は日本でいえば東京大学医学部で、エリート中のエリートのいるところだった。 (興味のある方はクリックして下さい、公式HPに飛べます)組織学教室は地下一階地上3階立ての建物の地下一階にあった。 何と小生はここで客員教授として扱われ個室までもらい非常に好待遇だった。何しろ給料が額面8000リラ(手取4800リラ)だったので。
  先ず最初の仕事は、電子顕微鏡の納入設置だった。本社時代に仲良くしていたエンジニアが東ヨローッパに駐在していたので、彼に来てもらい2週間で無事稼動した。 ところでここでの本来の仕事は?電子顕微鏡のメンテナンスと研究者と技師さんに対する指導であった。対象は研究者1人に技師2人だった。これで4800リラももらっていいの?

14.通勤
  下宿はシィシリという、北の新興高級住宅街(東京なら国立か吉祥寺あたりか)(上図では上端の更に3cmぐらい北にある)にあるアパートだった。 ここからバスにのってタクスィム(タクスィム広場と呼ばれおおきなロターリになっていてその廻りにインターコンチネンタルホテルや観光ホテルが林立しアパートも密集していた。 またガラタサライに向かう大通り沿いには各種高級店舗が並んでいた) と呼ばれる新興中心街(東京なら新宿あたりだろう)に行き、そこで乗り換えて、チャパまで行った。交通費は1.5リラぐらいだったと思う。 これは実は平均年収200リラから見ると高いのである。労働者の人たちは相乗り(乗合ではない)タクシーにギュウ詰でもっと安く通うのである。
  あとでシィシリからタクスィムに引越しをしたが、バスをやめて愛用したのは例の相乗りタクシーである。生き生きしていて実に楽しいのである。 見ず知らずの連中と一緒に押し合いで乗るのが何とも楽しかった。 このタクシーで覚えたトルコ語がアーベイ(お兄さん)、アルカダシ(友達)、ブルダイネジェイム(ここで降りるよ)、テュルクチェチョキギュゼル(トルコ語はイイね)、 テュルキエチョキギュゼル(トルコは最高)、テュルクチェチョキアス(トルコ語はほとんど話せないよ)である。

16.大学の昼食
  昼食は学食だ。ナスが多かった。赤い色が多かった、つまり色が変るくらい唐辛子をタップリ使う。あまりウマいとは言えなかったが、栄養を考えて野菜を取るように心がけた。 そのおかげで偏食、栄養失調にはならないで済んだ。

16.敬称(エフェンディムとベイ)
  大学で教室の男性スタッフは「XXベイ」と呼ばれ、男の用務員さんたちは「XXエフェンディム」と呼ばれ、明らかに差別されていた。目下目上の呼び方とも違うようだった。 私は皆「XXベイ」で呼んでいたが、そのためか用務員さんたちには良くしてもらった。

17.引越し
  3ヶ月後、代理店の担当者に付き添ってもらい、不動産やさんにアパート探しにいった。何軒か廻ってやっとタクスィムスクエアにアパートを見つけて引越しをした。 といっても家財道具は何もないが。ところがこのアパートが面している通りはとにかく夜何時になっても騒々しいのだ。 この通りはガラタサライに向かう大通りに平行に走る裏通りなのだが、夜、外に出てビックリした。ネオン街だったのだ、朝昼夕方は全くわからなかったが、 夜遅くなるといっせいにネオン街に変っていた。 ほうほうの体で1ヶ月半で逃げ出し、今度は夜も調べてタクスィムスクエアの住宅街側(領事館もある地区)にアパートを借りた。
  今度は大丈夫だった。が、なんとなく変った作りのアパートだった、しかもその通り全体が似た作りのアパートが並んでいた。 これはあとでわかったが昔の言葉で言えば廃止になった「赤線街」だったのだ。国の政策で廃止になった後、いっせいにアパートに転身し住宅街に発展的に変貌したそうだ。 私が借りたアパートは5階立てで1階はクリーニング屋、4階はオーナーだった。つまりかって1階は女性達が座り顔見せをする場所で、 2階以上はお仕事をする部屋であったそうだ。このオーナーに洋服ダンスを寄付して帰国した。

18.電子顕微鏡1 1トンあるのに!!
  秋だったが、トラブゾンの国立トラブゾン大学医学部に電子顕微鏡を納入した。 その時初めて搬入方法をみてビックリした。何しろ1トンはある代物を、4人のたくましいオジさんがエイヤっと持ち上げて運んでしまうのである。 ウ〜〜〜ン、すごいな。カルチャーショックだった。ただこのときにひっくり返しそうになりヒヤっとしたのを鮮明に覚えている。何しろ精密先端機器なので落とされたらアウトだった。 設置後の調整テストで性能は出たのでホッとしたが。
  トラブゾンは黒海沿岸のトルコで3−4番目の人口の大都市である。もう少し東に行けば、旧ソ連のグルジア共和国である。 ただなんとなく日本人に対する蔑視感をチラっと感じたことを覚えている。何であったかはもう覚えていないが。ところがトルコ共和国のHPで大学を調べたらトラブゾン大学はなかった。 一体何処に行ったのだろう?ロシアの近くまで行ったのは間違いないのだが!!!

19.電子顕微鏡2 冬は凍る冷却水
  冬アンカラの国立アンカラ大学医学部に納入した電子顕微鏡のトラブルコールがあった。稼動しないのである。 理由がわからないのである。どこもおかしいところはなかった。 ところが必ず朝に全くダメで、昼を過ぎると稼動し始める。ウィーン支社から呼んだ日本人エンジニアと2人で考えた。

教授に
「電子顕微鏡室にエアコンは当然入ってマスヨネ?」
「エアコン?」、「予算がないのでそんなもの入れてないヨ!」
「エッツ!!!!」
「ということは朝は何度になってるんでしょうか?」
  結局氷点下から5度くらいであった。これじゃあ動かないのは当たり前。電子顕微鏡は強力な電磁コイルを使うため相当発熱する。 このため電子部品が熱暴走しないように冷却水で冷すのである。この冷却水が凍っていたのである。冷却水が循環しないとスイッチが作動しない設計になっているのだ。 教授には「稼動条件」がマニュアルの条件を満たしていないので、これはトラブルではありません。と「ハッキリ」と言い渡した。 教授も苦笑いで、「仕方ない教室のエアコンをはずして入れよう」と言うことになり解決した。
  恐ろしいことがあった。200Vの電圧の国だが、当時のアンカラはなにしろ電気事情が悪く、ものすごい電圧変動で日に何回も140Vぐらいまで突然落っこちる。 ヒューズもすぐ切れるため何と細い針金を使っていたのにはゾッとした。 教室の助手がアッケラカンと「どこでもこうやってるヨ」、なんともたくましい国である。
電圧補償装置(電動スライダック)をつけたが年中それがスゴイうなりをあげて稼動するため大変な思いをした。当然補償しきれないため、 電子顕微鏡はしょっちゅう止まった。いやはや大変な国にきたもんだ。勿論40年前の話である。

20.オリーブ油と下痢
  トルコに来て初め1週間は下痢のしっぱなしであった。オリーブ油があわないのだった。サラダもオリーブ油に浮かんでいるくらい大量に使う。 でも2週間で慣れた。ここでも人体の反応に驚いた。人間ってナンとかなるもんだネ!

21.ケバプ(カバブ)
  トルコと言えばケバプである(日本的にはXXカバブである)。お気に入りはヨーグルトがタップリ掛けられたイスケンデルンケバプで、 アンカラのメイン道路沿いにあった小さなロカンタ(レストラン)のものが一番おいしくアンカラに出張するたびに寄っていた。 残念ながら今では場所も名前も覚えてない。
  代理店さんのある2階建て事務所ビルの2階にあるロカンタ(食堂)のシィシケバプ(シシカバブ)が実にうまかった。炭火で焼いてくれる。やはり炭火は一番だ。 (余談だがアメリカのボストンにあるヒルトップというステーキレストランのステーキも抜群にウマかった。魚しか食べないといっていた名古屋人がもう一回食べに行こうとうなったほどである。 ここも自営の牧場の牛の肉を炭火で焼くのだ。)
  アンカラに電子顕微鏡の納入で立寄ったレストランのアダナケバプは真っ赤だった。いつものつもりでオーダーして、来たらびっくり、何しろ真っ赤な物が皿に鎮座していた。 真っ赤の理由は唐辛子、口の中が火を噴いて暫くやけどのようだった。トルコ料理はこのような辛口の香辛料が多い。 砂漠の多い高温の土地ではボーッとするのを防ぐため強い香辛料をタップリ使うのだ、と地元民は言っていたが本当らしい?

22.硬水
  極めつけの超硬水である。何しろヤカンに1回お湯を沸かすと1cmぐらいカルシウムが層になって沈着する。こんな極めつけの硬水でも1ヶ月飲んでいると不思議に沸かさずに飲めるようになった。 慣れって怖いネエ。

23.トルココーヒー
  何しろ大学に出勤すると先ずコーヒーが入る。決していらないといってはいけない。コーヒーを入れて勧めてくれるのは友達だからである。 1日に10杯は飲むおかげで紅茶しか飲まなかった小生も、帰国時にはすっかりコーヒーが飲めるようになっていた。勿論例のトルココーヒーである。 飲んだあと粉が沈殿して残ったデミタシカップを逆さにして、有名なコーヒー占いをする。
  小生もコーヒー沸かしとデミタシカップセットを買ってきた。これはまだ6客無事に残っている。日本に帰って前記の叔父に湧かせて飲ませたところ、これはうまい、と言ってもらった。 コーヒー沸かしは銅製の水差しの形だが、ここに人数分の極挽きの粉を入れ必要な砂糖を入れ人数分の水をいれる。 ガスで沸かし器をあぶると沸騰して泡が噴火のように湧きあがる。 それを逃さずにデミタシカップにすくう。これを何度か繰り返し1カップ分たまったら出来あがり。コーヒー好きにはたまらなくウマい。 ただ日本ではトルココーヒー向きの極引き粉はなかなか売っていない。

24.トルコチャイ(トルコティー)
  大学でコーヒータイムの合間には必ずチャイタイムがあった。トルコチャイは2段重ねの小さなヤカンで沸かす。 下のヤカンにはお湯が沸き上部のより小さなヤカンでは人数分の紅茶の葉っぱを入れ少量のお湯を注ぎじっくりと煮出す。 真っ黒な煮汁をチャイグラスに1人分いれ、好きな数の角砂糖をいれ、下のヤカンのお湯を注ぎ出来あがり。 これがおいしい!紅茶のエキスが全て出るためコクがありなんともウマいのだ。帰国するときにトルコチャイのセットを購入した。 ガラスのチャイグラスセットだ。250リラ程度の普通のものだが大事にタオルに来るんで持ちかえった。家内に粗末に扱われいまでは2客しか残っていない、あ〜〜あ! この2段重ねヤカンセットはかさばるので残念ながら買わなかった。

25.ヨーグルトとアイラン
  アパートの向かいにある雑貨屋さんに毎日ヨーグルトを買いにいった。1リットルサイズを2日で食べていた。 体調はすこぶる良かった。引っ越してからは、朝チャパにつくとバス停際にある屋台で、サンドイッチと水割りヨーグルト(アイラン)をもらって大学の自室で朝食にした。

26.牛肉
  何しろケバプ(羊肉)の国である。牛肉は高級住宅街シィシリでもマーケット内の肉屋さんにしか売っていなかった。意外に安く、ステーキ肉を買って来ては自分で焼いて食べていた。 ガスは勿論都市ガスのようなものはなく、ボンベで売っているのでそれをボンベごと買ってくるのである。勿論約40年前の話しである。 イスラム教では豚は不浄であり、ヒンズー教では牛は神聖なため共に異なる理由で食べない。でもトルコ人は牛肉を食べる。

27.ラッキ
  水をたらすと白く濁るほどのアルコール分の高い焼酎のようなもの。なかなかうまい。但し飲みすぎにはご注意、間違い無く腰が立たなくなる。

29.羊の脳みそ料理
  初めはビックリしたが、チーズと思えばどうってことはない。

29.焼き魚
  イスタンブールに会社の仲間が出張で来ると魚料理のレストランに案内する。ヨーロッパ人は魚をそれ程食べないが、トルコ人は廻りが海のせいか、ギリシャ人とともに魚をかなり食べる。 ところが必ずグリルしオリーブ油タップリで料理される。はっきり言ってチットもうまくない。 そこでわれわれは魚を「そのまんま」か「チョッと塩をふるだけ」で焼いてくれとオーダーする。彼らの答えは簡単で、「ここはレストランだ、調理しないで出す事はできない」という。 つまり焼き魚は料理ではないのである。彼らの料理の範疇には入らないのである。 結局無理を言って焼き魚にしてもらい、持ちこんだ「しょうゆ」をかけて食べるのである。つまり魚がおいしいのはヨーロッパでも地中海に面した国々なので、 会社の連中は楽しみに出張してくるのである。

30.シェイタン
  代理店のエンジニアとマルマラ海に釣りに行き、魚を焼いたが、目をたべたら「お前はシェイタンか」と言いわれた。
シェイタンとはサタンつまり「お前は悪魔か」。もともとトルコ民族は中央アジア出身である。魚はオスマントルコとして内陸から海のある(北は黒海、南は地中海、 東はエーゲ海である)土地にでてきてからなので、それ程食べ方に歴史があるわけではない。目は食べないのだ。

31.家具
  家具は小さな洋服ダンスのみであった。800リラで購入した一応高級品だった。これも帰国時にアパートのオーナーに譲ってきた。

32.オーバーコート
  冬になったので、通勤用のオーバーコートを洋服屋に買いに行った。気に入った淡いベージュのダブルのロングコートを買った。教授に言われた「銀行マン見たいだ」と。 誉め言葉か、あきれた言葉かは聞かなかった。1200リラもした高級品だった。 典型的なコンチネンタルなのでウエストがやや絞ってあって、肩にパットが入っていた。春先に帰国を控えて汚れを落とすためアパートの一階の洗濯屋に出したら、 思いっきりプレスをされ肩のパットがつぶれてしまった。まあ、つぶれちまったものは、しゃーないか。 日本でも2冬着たが、結婚して肥えたためダブルがしまらなくなり、廃棄した。

33.TV放送
  松下電機か何処かが協力してTV放送が開始されたところだった。まだ電機屋でもTVを売っていなくて、大学のスタッフの家でTVを見させてもらったが、 日本人が見てわかる番組は全くなかった。歌番組もやっていたが丁度ポールモーリアの「オリーブの首飾り」がトルコ語の歌で流行っていた。

34.エーゲ海/地中海 クルージングツアー
  地元の新聞(ミリヤト)社の主催のツアーが夏休みにあった。教授の勧めで申し込んだ。 2週間のツアーであった。4800リラを支払い船に乗った。イスタンブールを出航し、 途中トロヤ(トロイ)、ベルガマ(ペルガモン)、イズミル、アンタリア、アランヤ、コンヤ、アダナなどの各都市に停泊しミニバスで見学飲食をしながら シリアとの国境の町アンタキヤまで行って帰る航路であった。 アメリカ人、イギリス人、ベルギー人、ドイツ人、南アフリカ人、キプロス人、トルコ人と日本人の極めてインターナショナルな御一行だった。 かなりの強行軍だった。実はあまり覚えていないのだが、町々でワインの飲み比べをしたのは覚えている。なにしろ安いのだ。 困ったのは船内のコンセントの形状が異なり電動髭剃りが使えず、町でレザーを買いこんだことだ。
  他にトロイの遺跡やペルガモン宮殿跡も見学したが良く覚えていない。一番強烈に覚えているのは、トルコは湿度が低いため日本ほど暑さを感じないが、 アンタキヤでは日陰でも流石に暑く、ミニバスの温度計を見たら何度48℃を示していた。ウヘ〜ッ。 よくこんな暑いところに住んでいられるな。ボーっとして仕事なんか出来ないよ。だから気付けに強い香辛料が必要なんだね。

  気持ち悪かった「バクラワ」を思い出した。どこかのレストランでツアー御一行で食事をしたあとデザートが出てきた。当然スイートである。 一口くちに入れて思わず「何コレ?」。日本人の思っている「甘さ」とは世界が違う「濃厚な」甘さだった。 スイートは大好きだと言っていたアメリカ人夫婦の奥さんも「too sweet」と言ったきり残した。結局ご一行の中の地元民であるトルコ人医学生 (アメリカ人夫妻の家にホームステイをしたお礼にツアーに呼んだ)とガイドのトルコ人以外全員が残した。 コレがおいしいのかネ?「甘さ」も度を越すと甘くなくなり、気持ち悪いことがわかった。

35.ポレオンってなに?
  余談だがツアー終了後、イギリス人でBBC放送のディレクターとベルギー人兄妹/従姉妹がイスタンブールで1週間残ったので 同行してボスフォラス海峡のクルージングや黒海のツアーなど歩き回った。ツァーで知り合ったトルコ人2人も加わった。 その間英語の尻取りをしたとき、ディレクターが「ポレオン」と言った。わからなかった。彼はフランスの有名な人物だ、 日本人でも知っていると思ったのに、とボヤいた。「ナポレオン」とわかるのに10分かかった。「ポ」に思いっきりアクセントをつけるので全然わからないのである。 アクセントとは恐ろしいものだと改めて思った。

36.原始キリスト教7つの教会
  今はイスラム教のアナトリアだが、歴史は極めて古く、古代ハッチ王国、ヒッタイト帝国に始まり、中東の国々の覇権の舞台だった。 ローマ帝国が国土の一部とした時よりキリスト教が迫害を受けながらも広まっていった。 そのご東ローマ帝国、ビサンツ帝国とキリスト教が国教として確立され、セルジュクトルコ帝国がアナトリアの覇者になりイスラム教が広まり、 その後オスマン帝国下でイスラム教の国土が確立した。
  しかし原始キリスト教が確立した土地がアナトリアであることは余り知られていない。その最初の7つの教会は全てペルガマ(ペルガモン)周辺にある。 上記エーゲ海ツアーで、場所ははっきり覚えていないが(多分ペルガマの近くのテアテラ?だと思う)原始キリスト教最初の7つの教会の1つを見るチャンスがあった。 河沿いの薄暗い岩山のそばの洞窟脇にあった。幻想的な雰囲気を今でも覚えている。 教会の始まりはやはり荘厳さがある、心を引きこみ易い場所が選ばれるのだろうと感じた。他の場所で岩山の途中に作られた教会の跡も見たが、場所は全く覚えていない。 もし7つの教会に興味のある方は
R&A聖書ツアーで「ヨハネの黙示録7つの教会を巡るツアー」があります。

37.ウィーン、ザルツブルグ
  その年のクリスマスに会社の欧州支社の東ヨーロッパ支店管轄の駐在員がウィーンに集まり忘年会をザルツブルグのHolyday Innで行った。ザルツブルグへは鉄道で移動した。 全て個室タイプの列車だったことと、チケットコントロールの車掌が廻ってきたことは覚えている。2〜3泊したような記憶だが確かではない。 一番印象に残っているのはタクシーが天下のベンツ(但しディーゼル車)だったことである。 ベンツってタクシーだったの?数年後駐在した会社のアメリカ法人のボストン本社の顧客送迎用社用車もディーゼルのベンツだった。


















38.アントワープ
  忘年会後、ウィーンに戻りオーストリー航空でジュネーブにでて、サベナベルギー航空でアントワープにはいった。何故乗り継いだかというと、アントワープにでる直行便がなく仕方なくであった。 ベルギー人はアントワープに住むフレミッシュ(オランダ人と同じ低地ドイツ語/フランダース語系民族で言葉はオランダ語と方言程度の違いしかない)だった。 ベルギーはブリュッセルを中心とするフランス系の住民と、アントワープを中心とするフレミッシュ系の住民の混合の国家である。言葉が異なるため国内の標識は全て2つの言語が併記されている、 大変だねこれは。
  お父さんのポンティアックに乗せてもらいオランダ国境までドライブしたり、歓待してもらった。娘のジャニーンの車は何とTOYOTAのカローラであった。 安全で価格がリーズナブルなので評判がいいから買ったといっていた。 でも正直言って外国に行ったら外車に乗りたかった。ポンティアックは本当に静かでコレが「外車」だと感激したものだ(あくまで当時のこと)。 ジャニーンはアメリカ留学の経験があり英語はぺらぺらだった。まだ大学生だった。 兄のフェルナンドはもう結婚していて子供はまだいなかった。ジャニーンの一家はお父さんが商人で結構成功してかなり大きい家に住んでいた。 トルコツアーに同行していた従姉妹の高校生の女の子(ベアトリクスだったか名前が思いだせない)の家はカントリーサイドにあり牧場を持っていた。 そこはジャニーンのカローラでドライブした。のどかないかにも農村だった。
  ベルギーと言えば代表的な画家がレーベンスである。生誕の家が美術館になっており、案内してもらい生の絵を沢山見てきた。

39.ロンドン
  イギリス人デイヴィッドの家で新年を迎えた。アントワープからロンドンへはローカル飛行機でロンドンのローカル飛行場に到着した(空港名は全く覚えていない)。 迎えに来てもらい飛行場から例のリムジンで移動した。始めての本場のリムジンは新鮮な驚きだったのを思い出した。 デイヴィッドはロンドンに住むオックスフォード大出のBBC放送のディレクター。29才の独身で仲間と大きめのフラットを借りていた。そこに2−3泊させてもらった。 その間大英博物館を見学したり、鉄道で王冠のおいてある宮殿(名前は思い出せない)を観光したりし、忙しい年末年始を無理して付き合ってもらった。

40.サロニキ
  いよいよ新年最初の仕事のためギリシャのサロニキに移動する事になった。ロンドンから、サベナかスイスエアー(思いだせない)でギリシャのアテネにでた。 そこから当時世界三大ワースト航空といわれたオナシスのオリンピック航空でサロニキに移動した。 プロペラ機に超満員で到着するまで生きた心地がないくらい不安で一杯だった。そこで初仕事をした。
  顧客はサロニキ大学の医学部であった。用件はトラブル対策だったような(う〜〜ン思い出せない)。朝、大学行って昼12時になると職員は帰ってしまった。 午後はなんと16時から始まるのでお前もホテルに帰って午後4時に来てくれと言われた。 事前情報がなかったため、あっけに取られたが仕方ないホテルに戻って近所を歩いたが、店も何もやっていない。レストランが1件ぐらい開いていた程度だった。 見事に休んでしまう。これでも国家がなりたつんだから、日本人ももっと休んでもいいんでないかい。 午後は4時から8時までである。一度大学の研究員のうちに呼ばれて晩御飯をご馳走になった。また一度は代理店の社長に呼ばれてレストランで接待してもらった。 「日本人はこれが大好きなはずだ」と言ってオーダーしたのが大量の「カラマリ」だった。 つまりイカリングのフライである。確かに好きだが量には限度がある。そんなには食えんヨ!次ぎの章で書いたようなことがなければギリシャはいいところだった。
  終えてオーストリー航空でイスタンブールに帰った。

41.ギリシャとワーキングビザ
  駐在中、また仕事でギリシャのサロニキに行った。 イスタンブールからオーストリー航空でアテネに入り、オナシスのオリンピック航空でサロニキに入った。 飛行機はプロペラ機で満席だった。世界でもワースト5に入るぐらいの評判の悪い航空会社で到着するまでヒヤヒヤだった。サロニキはギリシャ第2の都市である。 ここのサロニキ大学医学部に電子顕微鏡の説明に行った。 ホテルにつくと支配人はニコニコ顔で「日本人は大好きだ」「夜、私の部屋に遊びにこないか」と言いながら私のパスポートにデンと押してあるトルコのワーキングビザを見たとたん無口になり 一言も口をきかなくなった。
  ギリシャは長い間オスマントルコ帝国の支配下(約400年)にあり、その間徹底したオスマン帝国の混血政策で、現在のトルコ共和国のトルコ人(中央アジアのトルコ民族も基は一緒だが)と 現在のギリシャ人は医学的にはほとんど同じ人種である。 異なるのは宗教と言葉と長い歴史とそれに基づく文化である)。それが民族間のとくに征服されたギリシャ側のトルコに対する憎悪を際立たせている。 結局1週間宿泊した最後まで一言も言葉を交わす事は無かった。

42.ギリシャの昼休み4時間
  ギリシャはスペインと同じ長い昼休みを取る国である。12時になると皆家に帰ってしまう。4時間食事昼寝のあと4時に出勤してきて8時まで働く。 これにはまいった。レストランも極一部が開いているだけ。でもこれで歴史ある国が成り立っているのだから大したものだ。

43.領事館
  トルコに駐在して半年以上経って10月に思い出して領事館に滞在届けを出しに行き,怒られた。また良く1人でいられたね、と感心された。 トルコにきた日本人はすぐ大使館や領事館に駆け込んで来てなんでも頼ってくる。いまどき珍しいね、だと。 総領事はやせ型の小柄な方だったが、空手の有段者でトルコ人に空手を教えていたので、日本人の若者の軟弱ぶりが気になるようだった。
  その時イスタンブールやアンカラに住んでいた外交官以外の日本人は約20人+その家族だった。全員集合しても大した人数ではなかった。 トルコで始まったばかりの実験放送を支えたTV局関係と橋などの大型インフラを建設する建築会社関係と文部省から派遣された学校の先生がたのようなトルコの近代化を支援する業界の駐在者が中心で、 あとは小生のような個別企業の駐在員だった。 ちなみに当時2等書記官だった人は京王プラザのフロントだったが、外務省の外郭団体に出向し、そこから派遣されてきていた。帰国後京王プラザに会いに行ったが、残念ながらわからなかった。

44.砂の器
  かの有名な加藤剛主演のハンセン氏病の親子の映画を領事館でみた。皆感動して泣いていた。とくに異文化の中で日本が恋しい駐在員家族の心に久し振りの感動だった。
年末には紅白歌合戦をみた。これも皆感動した。国内にいるとどうでも良い紅白が、海外に居ると妙に恋しくなる。やはり日本が恋しいのかなあ。

45.子連れ狼
  なんと子連れ狼がトルコ語の吹き替えで上映されていた。萬屋錦之助と大五郎がそのまま出ていた。でも見なかった。

46.ボスフォラス海峡
  夕焼けは世界一と当時いわれていた。他の国の夕焼けは知らないが、極めて美しかったのは覚えている。 後述のツアー仲間とクルージングをしたり、海峡を越えて黒海の沿岸まで遊びに行ったりした。帰国近くに日本の建設会社(竹中工務店だったと思う)が建築していた横断橋ができた。ここも教授やスタッフの車で何回か渡ったが、橋から見渡す海峡もなかなかきれいだった。

47.ウシュクダラ
  アーサーキットの1946年頃の大ヒット曲である。 真っ先に行ってみたが、普通の住宅街であまり感激しなかった。な〜〜んダ。








48.カパルチャルシュ(屋根付き市場)
  世界的に有名な、3000軒の店が軒を連ねるマーケットである。3日は通って話し込みながら1/3に値切るのである。私は2/3にするのが精一杯であったが。
しかし、良く通った、実に楽しいところなのだ、飽きない。

49.メアシャムパイプ
  高級なパイプ。大学の恩師に1セット買って帰った。大変恐縮をされ、逆に恐縮してしまった。日本で買うと高いが現地では280リラぐらいで買える。勿論高級品は切りがないが。

50.スレイマン大帝モスク
    荘厳さは類を見ない。丁度祈りの時に遭遇したが、居るだけで帰依してしまいそうに引きこまれる音響効果だった。他に最も有名なのはブルーモスクだ。 これはキリスト教の教会でも全く同じで、音の反響を利用して、音の催眠効果を最大限に利用し、人の感覚を捕らえ信者でなくても何時の間にか祈りの世界に入りこんでしまう。 洗脳されてしまうのだ、宗教とはスゴイ。まあ武道館でのロックコンサートのハウリングのような効果も似たようなものだが。「音響効果」は昔から洗脳の最大の武器の1つである。

51.トプカプ宮殿
  トプカプ宮殿の上の海の右側がボスホラス海峡、左側がゴールデンホーンである。 (3の地図参照)。下宿したシィシリやアパートを借りたタクスィムは一番上の対岸線の奥に位置する。








52.アヤソフィア(セントソフィア寺院)
    ココも何回も案内した。初めて訪れたとき天井を見上げていたら、ヒゲのおじさんがとことこやってきて、なにやら英語で説明をはじめた、初めはほうっておいたが、 つい聞いてしまい質問をしてしまった。これが「運の尽き」であった 。
  ひとしきり説明がおわると「オンベシ」といった。
私は「ネ」? 
  「オンベシ」と再び言った。つまりガイド料を払えと言ったのだ。払うのはやぶさかではなかったが、何しろ年収200リラの一般庶民の収入でオンベシ=15リラが高すぎるのだ。 しかし考えた、正月の飾りも馬鹿高いが年始のご祝儀相場で値切るとバチが当たるといわれるように 、寺院の中で値切るのはいかにも無粋、バチ当たりだと考えて「タマン」と言ってしまった。つまりOKした。おじさんは値切られると思っていたらしく、 予想に反して「満額」だったので破顔一笑「テシェッキュレエデリム(サンキュー)」「アッラハウスマルラドュク(アラーのご加護を)」と言って去っていった。 う〜〜ん、これで良かったのかなあ?
  この寺院はキリスト教の初期の寺院だが、イスラム教のトルコの支配下になったとき、偶像崇拝禁止のイスラム教の戒律にのっとり、漆喰(しっくい)で塗り固められていた。 共和国になってアタチュルクの指示でしっくいがはがされ、本来の色彩豊かなキリスト教の絵画がよみがえり、欧米人の観光スポットになっている。

53.ローマ水道
  アクサライから北に25分ほど歩くと、代理店の事務所に着く。2階建ての新興オフィス街の一角にある。途中、かの有名な水パイプをプカプカしている老人達のたまり場、 チャイハネ、を見ながらあるくのだ。ココから更に10分程歩くとローマ時代の水道橋の真下を通る。見上げると写真とおりだったが、それだけだった。とくに感銘しなかった。 上の方にあるのでピンとこない。

54.後日談1 インフレ1
  日本に帰って数年後に、イスタンブール工科大学の研究者が新らしい電子顕微鏡の新規購入の調査に来日したが、聞いたら4倍に物価が跳ね上がり、若手研究者(助教授だった) でも7000リラの給与になったと、こぼしていた。

55.後日談2 ヨーロッパ電子顕微鏡学会
  帰国3年後にハンガリーのブダペストでヨーロッパの電子顕微鏡学会があった。小生も演題をだしたので発表をするためブダペストに行った。 トュルキャン教授と教室のスタッフも発表をしていた。久し振りに再会し、教授と食事をしながらその後の話しなどで盛り上がった。 それ以来彼らとは会っていない。もう35年経ってしまった。

56.後日談3 インフレ2(2001年12月)
  2001年12月にトルコに旅行に行ったWAKABUNさんから、今1ドルが100万リラと聞いてビックリ。そこまでインフレなのか。

57.アルメニア人
  世界でも最古の民族の1つと言われているアルメニア人はイスタンブールにかなり住んでいる。 日本人にはトルコ人との区別はつかないが、キリスト教徒(正確にはアルメニア正教)である。 マーケットで宝石商をしている1人と知り合いになった。彼らは世界的に商人として財を成す人が多いが、トルコでも商人に多い、しかし人種としては差別されている、と彼は言っていた。 故国はコーカサス山脈で有名なカス海と黒海の中間にありトルコ共和国の隣国でもある。

58.アエロフロート
  余談だがワーストの1つだったシベリア上空をひとッ飛びするアエロフロートは帰国時など何回か乗った。何しろ飛んでいると毛布を配りにくる。 寒いし天井からポタポタ雫が落ちてくるのだ。何じゃこの飛行機は。おまけに何時も出てくるのはまずいチキンにたくましいおばさんスチュワーデスだった。

59.超短縮トルコ教養講座(2002年4月)
  トルコ語はウラルアルタイ語族で日本語も一族、と言われている。日本語と朝鮮語はウラルアルタイ語族とは違うという学者もおり、学説はまだ完全には確立していない。 トルコ人の発祥は古く中央アジアも中国よりのあたりと言われている。今ではトルキスタンと言われている地域だ。中央アジアの共通語は今でもトルコ語だ。 トルコ語人口は共和国を入れて約7000万人が話している。トルコ語だけでアジアを横断できると言われているくらいの広域言語だ。
  トルコはその後セルジュクトルコやオスマントルコとして発展しながら、アジアからすこしづつヨーロッパに移動をしていった。その間にイスラム教に改宗した。 またその間に移動した先々で混血をしたため、本籍のモンゴロイド系に、イラン系、アラビア系が加わり、世界最大のオスマン帝国時代にアフリカ系やヨーロッパ人の血を入れた。 特にギリシャ人、ブルガリア人との混血はすごかった。共和国トルコ人とギリシャ人、ブルガリア人は医学的にほとんど同一人種と言われている。言語と文化と住む地域と歴史が違うため、 区別ができるのだ。
    一方、共産ロシア時代にタタール人が黒海のクリミア半島からシベリアに強制移住されたことは有名だ。共和国にもタタール人はかなり移住してきている。 彼らは混血が進む前のオリジナル・トルコ人の形態を強く残していると言われている。従って典型的モンゴロイド系の顔をしている。つまり日本人とも似た顔立ちだ

  小生の知り合いだった研究者はブルガリア人とのハーフだった。代理店の営業マンは典型的アラブ系だった。友達は典型的ギリシャ彫刻の顔をしていた。
  彫りの深かった会社の日本人同僚は、トルコ人に違いない、と言われた。夏に日焼けしていた小生はパキスタン人か、と言われた、何で!。
以上簡単な教養講座。



以上

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