1-4. 琉球列島のY-DNA遺伝子構成 rev.2

rev.1








  基本的に日本本土との違いは小さく地方差程度であることがわかりました。

  北琉球はほぼ本土と同じY-DNA頻度なので、間違いなく日本列島そのものです。
  ところが南琉球はShinka氏の報告通りなら、北琉球とは全く異なり実は先住縄文系に後発の弥生系が取って代わったことになります。
本土では、縄文系と弥生系は意外に棲み分けし、遺伝子頻度に影響するような深刻な殲滅戦はなかったと思われる遺伝子頻度なのですが、 南琉球は縄文系が僅か4%しか現代に残っていないという報告があることは、あまりにも狭い島内では遺伝子頻度に大きく影響する戦いがあったということなのでしょう。

  今回の再調査で、2010年の論文が見つかりました。しかし知りたいことが半分しか触れられておらず当方にとっては極めて中途半端な論文でした。 YAP+度やmt-DNAなどの情報から台湾の影響が南九州にはおよんでいなかったことを証明するための内容なのでY-DNA「D」つまりYAP+度しか報告しておらず、 Y-DNA「O2」や「O3」の結果は全くないのです。読みながら全部調べろよ〜〜と文句を言っていました。 しかしこれで1つわかったことは沖縄本島と宮古島は遺伝子的にはほぼ同じであったことと、 石垣島はYAP+が九州並みに低いことでした。宮古島と石垣島の間に何かあるようです。

  もうひとつ前からあった情報が、添付の表の下の2行です。北琉球と南琉球に分けた遺伝子調査で出典がわからなかったのですが、やっと見つけました。 ところがダウンロードできない学術誌の掲載なので、結局データの真偽はわからずじまいでした。この情報では南琉球のY-DNA「O2b」度は67%と極めて高いのですが、 「O2b1」に進化した集団なのか韓半島から直接南下してきた「O2b」のまま進化しなかった集団なのかが全く分からないのです。 「破壊する創造者」的には主にY-DNA「D2」との遭遇で「O2b」から「O2b1」に西日本で進化したと欧米の研究者は考えています。 南琉球の「O2b」は一体どこから渡ってきたのか?本土からなら「O2b1」のはずですが、朝鮮半島から直接渡ってきたのなら「O2b」のままのはずなのです。 これは大問題のはずなのですが、研究者はそのような捉え方はしないようです。困ったものです。

rev.2
  北琉球と南琉球問題で情報を集めたところ、4年前の記事ですが、琉球大学が中心になって調査した研究結果が、宮古毎日新聞に紹介されていました(2014年9月18日(木) 9:00 )。 この結果はまさしくShinka氏の報告通りで、理由・原因はわかりませんが南琉球では南下してきた弥生系が縄文系を駆逐し取って代わったことを示しました。 島の狭さと少ない耕作適地をめぐる確執があった可能性が大ですね。








以上

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30-12-2. 石器晩期−縄文草創期の港川人はオーストラロイドのようだ。

  今まで縄文人顔とされてきたのは典型的なY-DNA「D2」のジャガイモ顔です。ところが16000〜18000年前頃(旧石器時代最晩期から縄文時代草創期)のとされる港川人の顔は 最近の再調査で下記の記事のように完全にオーストラロイド顔と判明したそうです。 これはY-DNA「C1」はY-DNA「C2」100%の西ニューギニアのLani族(オーストラロイド)に似ていたはずだという当ガラパゴス史観の意見と完全に一致します。 そして沿岸狩猟採集系遺伝子集団で、貝文土器など土器の製作集団だったのです。

  それでは2010年6月28日asahi.comの港川人の記事をご紹介します。
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  港川人、縄文人と似ず 顔立ち復元、独自の集団か

  新しい研究をもとに、国立科学博物館が作り直した港川人の復元図(右図)















  左図は国立科学博物館に展示されている港川人の復元像。縄文人の祖先と考えられたので、日本人の雰囲気だ。沖縄で見つかった旧石器時代の人骨「港川人」の再調査を進めている国立科学博物館(科博)が、顔立ちの復元図=写真上、科博提供=を作り直した。縄文人の祖先とされてきた従来のイメージ=写真下=から大きく変わり、オーストラリアの先住民といった雰囲気だ。

  上左図の縄文人は眠そうな目ですが、本来の「D」は左図のアンダマン諸島のY-DNA「D*」100%のOnge族やJarawa族のようなジャガイモ顔ですがパッチリした目の鋭い二重だったはずです。 そして本来の「C1」は右図の西ニューギニアのY-DNA「C2」100%のLani族のような奥目のいかつい彫深顔だったはずです。どちらも今の日本人に時おり見かける顔です。 しかも当然のことながら古代遺伝子集団や先住民に特有の見事な鯨面です。これが大人のY-DNA「D2」縄文人と「C1」縄文人のオリジナルの顔の現代版なのです。 国立博物館の復元像は鯨面にした方が良かったですね。古代人の特徴をあらわすからです。

  港川人は1967〜76年に沖縄本島南端の石切り場で見つかった。5〜9体分の人骨と考えられ、出土地層は約2万年前と推定されている。 全身の骨格と顔面が残っている旧石器時代の人骨は、日本ではその後も発見はない。 顔の彫りが深く、手足が長いといった港川人の特徴が、縄文人によく似ていることから、 縄文人の祖先は南から渡ってきたとの考えの大きな根拠となってきた。その縄文人に大陸から渡ってきた弥生人が融合して日本人が形成されたと考えられてきた。 科博はそうした日本人形成論の再検討に取り組んでおり、その一環として港川人を再調査してきた。

  CTなど最新の技術で調べると、発見当初の復元にゆがみが見つかった。下あごが本来はほっそりとしており、そのゆがみを取り除くと、横に広い縄文人の顔立ちと相当に違っている。 現在の人類ならば、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近い。

  縄文時代の人骨は、列島の北から南まで顔立ちや骨格が似ていることから、縄文人は均質な存在と考えられてきた。 だが、縄文人の遺伝子を分析した結果、シベリアなど北回りの集団、朝鮮半島経由の集団など多様なルーツのあることが見えてきた。

  これを正確に言うと、縄文男性は前述のように「D2」「C1a」と「C3a」の3亜型があり、全国に分布するのが圧倒的多数の「D2」、 日本列島部分を北上した「D2」と一緒に北上したため青森など北に多く分布するのが「C1a」、ナウマン象など大型獣を追ってシベリアから朝鮮島経由で南下してきたため九州や西日本に多いのが「C3a」。 一方女性は民族性を持たないことや、Y-DNA「D」「C」が出アフリカ後移動途中のインド亜大陸や、スンダランドや東シナ海−黄海ランドなどで巡り合ったmtDNA遺伝子の女性が集団に その都度新たに加わるためmtDNAの調査でも男性より種類がやや多い遺伝子構成になっています。

  新たな復元図は、そうした研究を総合したものだ。科博の海部陽介研究主幹は「港川人は本土の縄文人とは異なる集団だったようだ。 港川人は5万〜1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来した可能性が高い」と語った。 その後に、農耕文化を持った人たちが東南アジアに広がり、港川人のような集団はオーストラリアなどに限定されたと考えることができそうだ。(渡辺延志)

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  その後、石垣島の白保竿根田原洞穴からこれまでの20000年前より更に古い国内最古の24000年前頃の人骨が発掘された、というニュースがありました。
  旧石器時代の人骨として最も有名な港川人も沖縄県島尻郡八重瀬町(旧具志頭村)で見つかっており、全て琉球列島の遺跡という驚くべきことですが、骨が残りやすい土壌のようです。
  縄文人(正しくは石器−縄文人)にはY-DNA遺伝子の3亜型があり、
・Y-DNA「D2」;現代日本人のY-DNAの実に41%を占め、小柄でジャガイモ顔で二重瞼の日本人の基盤です。
・Y-DNA「C1a」: 4%、小柄なオーストラロイド系海洋性ハンター、
・Y-DNA「C3a」; 3% ナウマン象を追ってきた大陸性ハンター

  縄文系は合計日本人男性の実に48%も占める田舎的な親切な日本人気質の源になった遺伝子です。そして3亜型とも出アフリカ当時に近い古代性を残したシーラカンス遺伝子です。 田舎独特のホスピタリティはこの石器−縄文人から受け継ぐ古代気質です。これらの遺伝子集団の草創期の遺跡は海面上昇後の大陸棚に大部分が沈んでおり草創期の文化の構築は難しいものがあります。 もし沿岸大陸棚の研究が進めば縄文時代の草創期は14000年前ごろとされる今よりもっと遡る可能性が極めて大なのです。

  50000年前ごろにはオーストラロイド(Y-DNA「C2」、「C4」)は既にスンダランドと海で分離していたサフール大陸(オーストラリア/ニューギニア大陸)に上陸していたことが明らかになっています。 渡海技術が50000年前ごろには既にあったのです。ということは、当然陸続きだった日本列島部分に同じ頃に「C2」や「C」より古い古いY-DNA「C1」が住みついていたとしても至極当然のことでしょう。 ということは、「C」と行動を共にしていたとされる「D」も一緒に住み着いたはずです。といっても、住みついたのは今は海面下に沈んだ120m下の大陸棚部分のはずですが。 つまり、50000年前頃には遅くても20000年前頃には日本列島部分にY-DNA「D」「C」は定住していた可能性は極めて大です。
  石垣島の白保竿根田原洞穴の20000年前~24000年前頃の旧石器時代人は「C1a」か「D2」のどちらでしょう。



以上

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30-33. 石垣島で国内最古の全身人骨発掘

  関連の学会や研究機関では大変話題になっている報告です。紹介するのは2017/5/21の朝日新聞の記事です。
沖縄群島が日本人の「先祖の系統の一つ」を考察するうえで非常に重要であることがまた裏ずけられました。

1.オーストラロイドでしょう。
  縄文草創期の港川人はオーストラロイド似(恐らくY-DNA「C1a1」)であることは既に研究機関の復元顔が報告されていますが、 弟遺伝子亜型と考えられるオーストラリアのアボリジニ(Y-DNA「C1b2b」)は50,000年前には既にサフール大陸 (ニューギニア島とオーストラリア大陸が一つの大陸に繋がってころの大陸名)に上陸していたことは 欧米の研究で報告されています。
  つまりニューギニア高地人(ラニ族やダニ族など:Y-DNA「C1b2a1c」)やオーストラリア・アボリジニ(Y-DNA「C1b2b」)より古い 兄Y-DNA亜型を持つ縄文人の一系統である海洋性ハンターのY-DNA「C1a1」は 少なくとも同じころにはヤポネシア列島に上陸していてもおかしくはないのです。
Y-DNA「C」系統の中で最も古い亜型が日本列島から検出されているのです。 日本列島は少なくとも数万年以上まえから、遺伝子の吹き溜まり(最終到達地)となり 極めて古い亜型がそのまま残っている希少な価値を持つ唯一の「先進国家」なのです。

2.主要な遺伝子亜型の入れ替わりがあったようです。
  今回の発掘の価値は、遺伝子亜型入れ替えの可能性が求められることにあります。
  これまでの国内のY-DNA調査では現代石垣島はY-DNA「O1b2」つまり弥生農耕民亜型が60%近くを占める弥生系世界のようです。 日本列島の中で最も弥生度の高い地域と思われるのです。
  ところがもっと古い時代は沖縄本島と同様の縄文系の世界であることが今回判ったのです。
  縄文系精神風土の石垣島に、南下してきた稲作農耕民が移住し多数派になり精神風土が弥生系に変わったと考えられます。 沖縄の中でも独特な石垣島の精神風土は支配層の遺伝子亜型の違いによるものかもしれません。 沖縄群島は縄文でひとくくりにされる単純な文化/精神風土地域ではないのです。

  かと言って台湾との接点は現在全く検出されていません。台湾の先住民の遺伝子型はY-DNA「O1a1a」で楚系の集団と考えられます。  この楚系遺伝子亜型は石垣島では検出されず、むしろ本州の中国地方で高頻度で検出され、中国地方が日本の中でも 特異な地域(吉備氏が代表か?)であることが判っています。
  石垣島の農耕民遺伝子は現代のY-DNA調査では、台湾からではなく朝鮮半島から九州経由で南下してきたと考えるのが妥当です。
  但しこの調査研究報告は若干古く、報告された弥生系の亜型は満州、朝鮮半島や日本の一部でも検出されるオリジナル呉系のY-DNA「O2b2」か、 縄文と交配し分化した日本独自のY-DNA「O2b2a1a1」かどうかまでは踏み込んではいません。 つまり水田稲作農耕文化民が満州から朝鮮半島経由で南下し一気に石垣島まで移住してきたのか、九州で独自亜型に分化してから南下してきたのかはまだわからないのです。
  新しい研究が進む事を期待します。


関連論文と記事
16-5. 30,000年前〜35,000前に遡る沖縄の漁労技術
14-4. 42,000年前のホモサピエンスの外洋漁撈と海洋技術
30-12. 石器晩期−縄文草創期の港川人はオーストラロイドのようだ


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1-4-2.琉球列島は大陸とつながったことはあるのか?
  別の記事で対馬海峡と津軽海峡は大陸と陸続きだった可能性は低いが、北方の津軽海峡は氷結し、人が渡れた可能性はあることが示唆されました。 では琉球列島はどうだったのでしょうか? 当ブログの他の記事でご紹介した日本第四紀学会のQ&Aに下記の質問をして見ましたところ回答がありましたのでご紹介します。

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質問:

  質問12で「最終氷期には日本列島と大陸間の海峡は完全につながっていたのですか。」という問いがありましたが、 同じく琉球列島孤はどのような状況だったのでしょうか? どこかとつながっていたのでしょうか。

回答:

  最終氷期の海水準低下量と現在の海峡の水深ならびに現在の琉球列島周辺の構造運動(隆起/沈降速度)から考えると、 最終氷期最盛期における琉球列島と中国大陸との接続は考えにくく、 また、 慶良間海裂とトカラ構造海峡の陸化についても考えにくいので、 最終氷期における琉球列島と中国大陸および九州との一大陸橋の想定は極めて難しいといえます。 最終氷期における海面低下に伴って、 琉球列島はいくらか陸域を増大させましたが、全体として、 島々から構成されていたものと考えられます。 当時の古地理図を描く際の最終氷期における海水準高度(水深)は約120 m(米倉ほか,2001)が提示されています。 この水深は,東シナ海大陸棚における最終氷期の水深=120±10 m (斎藤,1998)と調和的です。

[参考文献]
斎藤文紀(1998)東シナ海大陸棚における最終氷期の海水準.第四紀研究,37:235-242
米倉伸之・貝塚爽平・野上道男・鎮西清高編(2001)日本の地形1 総説.349p,東京大学出版会

回答者 : 河名俊男
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  最寒冷期でさえも琉球列島周囲の水深は120mもあったそうです。と言うことはオーストラロイド形質とされる3万年前頃の港川人(恐らくY-DNA「C1」)はどうやって海を渡ったのでしょうか? 「D2」も行動を共にしていたはずなので、そのうち縄文タイプの化石も発掘されると期待していますが、小舟で漂流し「椰子の実」のように偶然流れ着いただけなら、化石は見つからないでしょう。

  そうなるといつ頃、「D2」「C1」は琉球列島に渡ったのでしょうか?そして何のために。

  伊豆大島で死んだとされた源為朝は琉球へ渡ったという伝説があるくらいなので鎌倉時代ごろに日本本土から「D2」遺伝子が渡ったとも考えられないこともありませんが??でしょう。 尚王朝は?わかりません。薩摩支配は?薩摩はむしろ「C3」と考えているので「D2」頻度が50%近くになるほど渡ってくるとは全く考えられません。

  いずれにせよ歴史時代に入ってから「D2」が島に渡ったと言うなら「O2b」もしくは「O2b1」が先住民となります。これも考えにくいです。

  琉球列島弧は島が散在するだけに船で自由に行き来できるようになるまでは孤立していたはずです。さまざまな分野の研究者も沖縄本島を中心とする北琉球と 宮古島、石垣島などの南琉球では文化も言葉も異なると言っています。しかし遺伝子的にはきちんと調べグローバルで報告された例は全くないのです。

以上

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